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 “オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分”






“Locke”
 Director : Steven Knight
 UK, 2013




 1人の男が車に乗りながら携帯電話で会話するシーンだけでできている映画。低予算かつ限定された舞台で成り立っている系統の映画だけど、奇抜なアイデアや意外性のある展開を持つようなタイプとは違う。状況自体に特殊な点は何もない。バーミンガムからロンドンまで約1時間半、高速道路M6〜M1での逐次的な行程をほぼそのまま追ったかのような時間構成。電話の相手は入れ替わりながら数人出てくるけれど、画面に映る人物は最後まで主人公のみ。演じているのは “マッドマックス 怒りのデス・ロード” “インセプション” などに出ているトム・ハーディ。家/職場/病院という並行する事態へ対処する会話劇と主人公の演技に映画のすべてが注力されている。
 有能な現場監督であり、円満な家庭を持つ主人公。超高層ビル建設現場で欧州最大規模となるコンクリートを打設するという責任ある難業を翌日に控えた夜、過去に犯したただ一点の過ち――誰でもおこなってしまうような過ちに起因するひとつの出来事が到来し、結果、主人公はきわめて大きな選択を為す。この選択は映画冒頭、信号が変わる瞬間に左から右へウィンカーを突然切り替えるシーンとして象徴的に描かれている。その後おこなわれる携帯電話による会話のすべては、緊迫感に満ちてはいるものの、もはや何も本質的な驚きには至らず、誰もが予想できるように展開する。予想できるというのはプロットが月並だからというわけではなく、未来を決定する選択が既に済まされており、もう戻ることはできないからだ。高速道路をただひたすらまっすぐ南へ。引き返すことも立ち止まることも車から降りることもなく。ストレスとプレッシャーが続くなかで主人公は事態の収拾に尽力するが、どうあがこうともこの先、過去に築かれた安穏が失われる顛末を迎えざるを得ないことは、主人公自身にも観客にもわかっている。
 原題 “Locke” は直接的には主人公の名前 Ivan Locke を指す。けれど監督によればこの名はイギリスの哲学者ジョン・ロック John Locke を示していて*1、つまり主人公の生き方に経験主義理性論が重ねられている。主人公は理性を体現するような生き方をしてきた人物。そして彼が過去に唯一犯した過ちは、理性を外れた行動として為された。本編当夜の出来事はこの過去を起点としているが、転落が真に起動したのは、信号でウィンカーを切り替えた瞬間。このときのこの行動こそ、理性に奉ずる彼にそぐわない衝動・非合理の極みにある。
 彼が携わってきた欧州屈指の巨大建築物が理性の産物のようなものであるとして、映画の末尾ではその対極、非-理性的な行動がひとつの結実に至ると見ることができる。




 冒頭でひとつの選択を為すことによって始まり、その後は一直線に進むだけの映画だが、最後にふたたび選択をおこなう局面が訪れる。

“Ivan, will you come?”


 純粋な言語の形式として考えるだけならこの問いに肯定で答えても否定で答えてもよいわけだが、もちろんこの流れで否定を選ぶことはあり得ないだろう。倫理として、あるいは映画として、ここでは肯定で答えることが順当だ。選択余地があるように見えてその実、片方の答のみに制限されている。
 だけどこの主人公は映画の冒頭で、彼のそれまでの理性的人生からすればあり得ないような選択をおこなっている。そのことを考えるなら、最後のこの選択肢において、ふつうなら選ばないような答が選ばれる余地は必ずしも排除されていないと思う。本来であればこの問いかけに選択余地はないはずだけど、冒頭で既に順当ではない選択をおこなったという事実と併せると、あらためて選択可能な質問として成り立ってくる。その上で、それでも主人公は順当な答を選択したということになるわけだ。
 ところで、最後の問いが選択であるとして、ここで肯定を選ぶことは果たして理性的な答なのだろうか?
 彼がロンドンに向かった理由が、極度の不安にかられながら今まさに出産しようとしている孤独な女性への責任感から来ているものだと考えるなら、初発の選択がいかに衝動的で過去の行動パターンを覆すものに見えても、それは説明可能な合理性を備えた行動の範疇にあると思う。その延長で見れば、最後に無事出産したことを確認した時点で「もう自分が立ち会わなくてもだいじょうぶだ」と考える方がむしろ一貫性がある。出産の成否だけが問題であるなら、成功したとわかった時点で病院に向かう理由はなくなるのだから。
 しかし実際には、主人公はやはり彼女のもとへ向かうのだ。もう帰るところが失われたという理由もあるだろうし、ここまで来たなら最後まで行くか、という程度なのことかもしれない。自分の子どもの声を直接聞いたことで予期せぬ愛情が沸いたという説明もあり得る。いずれにしても、それは初発の選択からは一貫しない行動であろう。言い換えるなら、そこでは当初の動機からの変化が生じている。物語としては順当な一択しかないように見える質問だけど、実はそこで除外されている側の方が物語全編を通した行動動機に沿った合理的回答であり、主人公が実際におこなった回答はそこからの更なる逸脱なのだ。
 なぜ主人公が最後このように選択するのか、なぜ最後の選択の順当な答はこれなのか。そこにこそ、この映画の真髄があると思う。




  • 映画としてよくできている。レンタルで観たけど、今後、折りにふれて見返したくなるような気がする。会話のトーンとか。
  • 演技と脚本もさることながら、編集も巧みだと思う。表情が見える人物がひとりしかいない代わりに、車窓の断片が物語をつなぎ会話を補完する機能を果たしている。これは小説ではできない映画ならではの文法。
  • 車内というのは空間として特殊な状況。
    • 移動するという点。
    • 外部と仕切られていて、移動中は扉によって外へ出ることができないが、四方はガラスによって連続してもいるという点。
      • つまり移動/接続/閉鎖が同時に成立している。
    • コンパクトにさまざまな機能が備わっている点。実際のところ、「携帯電話」も車のインターフェイスに接続して使用しているので、車の一部とも言える。


IMDb : http://www.imdb.com/title/tt2692904/

*1:英名の “John” はウェールズ語で “Ifan” に相当し、この語は“Ivan” と発音される。http://thetfs.ca/article/interview-steven-knight-locke/






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell