“BLAME!”
監督 : 瀬下寛之 原作・総監修:弐瓶勉
2017
楽しんで観賞した。
作品として大絶賛できるほどとは思わないけれど、技術面ではポテンシャルを感じたので、今後のアニメ界には期待が持てる。予算と能力が適切に投入されればすごいものが生まれてくるだろうという確信は得られた。
映像表現について
フル3Dのセルルックアニメはこのところかなりセルアニメに近づいてきたと思う。『楽園追放』(2014, 東映アニメーション)、『シドニアの騎士』(2014・2015, ポリゴン・ピクチュアズ)、『ブブキ・ブランキ』(2016, サンジゲン)といったこれまでの作品でも技術の進展を感じたけれど、映画版『BLAME!』は、特にキャラクター表現がまったく違和感なく成り立っている。
とはいえ、フル3Dが2Dアニメに近づく、というのは何か矛盾的な言い方という気もしなくもない。セルルックがセルアニメに近づくというのは実際のところどういうことなのか。何が近づいて、何が残るのか。
そもそも3Dというのは制作過程の話であって、立体視でないかぎり、出来上がったものは同じ2Dの絵。鑑賞時に3D的なものが感じられるとすれば、それは現実の3D知覚と同等の特質を認知しているということかもしれない。ひとつには、形状の一貫性。たとえば腕が正確なスケール/プロポーション/可動範囲で動作しているかどうか。もうひとつは、陰影描写の一貫性。動きや光源位置に応じて正確に陰影が移り変わっているかどうか。
セルルック・アニメはこのような現実の知覚に通じる特性を充分備えているけれど、実際は、セルアニメに近づけるプロセスのなかで恣意的な操作を経ている。決して形状や陰影が自動的に生成されてアニメに仕上がっているわけではない。アニメとして自然な絵に見せるためのいくつもの上手な嘘が施されている*1。セルルックの「3Dらしさ」は、断片的な範囲での正確性・一貫性としては成り立っているかもしれないが、全体としては大きな操作のもとにある。
こうした操作は、セルルックCGにかぎらず映像表現全般において虚構を成り立たせるに当たって不可欠なことでもある。セルアニメでも光源では嘘をつくし*2、実写映画であっても、カットごとに照明が微妙に異なっていたりする。映像表現では、アニメであれ実写であれ、光/陰影をどう描写するかが特に中心的な課題となっている。光/陰影が現実の物理的な正確性からどれだけ隔たっているかというところに、虚構性がどのように構築されているかが表れる。
『BLAME!』の原作は、「建物」も主役と言える要素として扱われていたような作品だった。人間を冷淡に突き放し圧倒する無限の構造物。
映画版では、建物全般に対して原作ほどの超然とした描写やフェティシズムは見られない。(パイプ表現など拘りを持ってつくられてはいるようだが、所詮ひとつの階層しか出てこないので「無限」を感じさせるほどではない)
代わりに、「光」が描写上ひとつの大きな要素となっている。(「色」について意識的だったことは制作サイドにも語られている *3)
漫画と異なりフルカラーアニメは光の多彩な表現が可能、さらに 3D-CGであることがより細やかな陰影表現にもつながっている。メディア形式/制作技法のこうした特質が、物語描写にも効果を及ぼしている。
この映画の全体的な特徴として、環境光の光源が漠然としている一方、直接光としてのはっきりした発光体がいくつかあって、これらが物語上の要点として布置されていることが挙げられる。監視塔の「眼」、シボの投影体、電基漁師の灯具、ヘルメット内や自動工場のグラフィック映像。そうした発光体のうち究極と言えるのが、重力子放射線射出装置だ。
- 光源がどこなのか不明な光
- ヘルメット内という特殊な「空間」での光の描写
- ヘルメットや霧亥の視覚で表示されるグラフィック要素も光の一種としてこの作品における大きなポイントとなっている。
- 映像としてのシボ
- 映像体あるいは仮想空間でも光の陰影がある。
- 作品内における「究極の光」とも言える重力子放射線射出装置
- 強い輝度を持った光であることはまちがいないのだが、描画に見合った照度の光源として働いてはいない。
たとえば下の例では、照射後に顔面がハイライトに変わっている一方で前髪はそのまま、また、脚部は光がオーバーレイされているだけで陰影が残っている。
このあたり、作品内での物理的整合性よりも物語としてあるべき描き方を優先した操作がおこなわれていることが覗える。
- 強い輝度を持った光であることはまちがいないのだが、描画に見合った照度の光源として働いてはいない。
まとめると、建物内でのコントラストの強い光環境、陰影の3D描写による動きの多い展開、絶対的ガジェットとしての重力子放射線射出装置の光、という構成がこの映画での光のあり方に見て取れる。
陰影表現はキャラクターたちの「動き」の描写に関連し、輝度を持った発光体は物語を進める仕掛けとして作用している。
その他の雑多なメモ
- ドラマ部分に関しては、そもそも『BLAME!』にこうした要素が必要なのかというところはやはり議論になるところ。
まあこうした要素がないと映画作品としてまとまらなかっただろうとは思う。
でもそれを言うなら、原作『BLAME!』はそもそも漫画として成り立っていなかったようなものであって、にもかかわらずそれが受け入れられたわけだから。一般的な意味での映画作品にならなかったとしても、『BLAME!』本来の魅力を追求すべきだったような気もしないでもない。
……『シドニア』にせよ『人形の国』にせよドラマ部分を大きく持った作品なので、弐瓶勉にドラマが不要、とまでは言わないけれど、『BLAME!』に必要なのかというと、どうだろう。原作になかったドラマ性を入れるのはいいけれど、入れたものが凡庸なものであるならば、本来求められているだろうものを捨ててまでやるほどの価値があったのかと思ってしまう。
一方で、でも映画としてはこんなものでもいいのかもな、という気持ちもある。大きな破綻なくまとまってはいたと思うし……。
西部劇的な普遍プロットが骨格でもいいんだけど、それならそれでもっと戦闘の超絶的描写に注力してもよかったのではないかという消化不良感。
- 建物描写に関しても、期待を上回るものではなかった。
何だろうな……。建物なんて3D技術では原初的なものだろうに、人間の3D描写の方がよっぽどうまくできてて魅力があったのは不思議。
- キャラデは良かった。
動きとか技術的には相当高度になってきてると思う。最初の方はヘルメットでごまかされてたようなところはあったけど、全体的にはかなり自然。
あと、キャラデけっこう原作から変えてきてるわりに、シボとサナカンは一目でそれとわかるのがすごい。元のデザインがそれだけ完成されてたということかも。
- グラフィックも良かった。
「超構造体」とかが台詞での説明も何もなくただグラフィックで文字として瞬間的に示されるだけっていうのが特に。そこに設定が詰まっているんだけど初見の人への何の配慮もないのが好ましく思った。