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 アーサー・C・ダント “物語としての歴史 ――歴史の分析哲学”



“Analytical Philosophy of History
 1965
 Arthur C. Danto
 ISBN:4772001727



物語としての歴史―歴史の分析哲学

物語としての歴史―歴史の分析哲学






 歴史哲学の論考。
 本書の立場は、「実在論的歴史哲学」に対置する「分析的歴史哲学」だと表明されている。
 分析的歴史哲学は歴史学とは異なる。歴史的事実や史料を自ら扱うというよりも、歴史学でそれらがどのように扱われるのかといった視点に立つ。言うなればメタレベルの位置で、歴史はどのように語られるものなのか、歴史学は何をおこなっているのかといったことを考察する。
 一方、この書で批判されている実在論的歴史哲学というのは、歴史が完結した実体としてあることを前提として歴史全体に説明を与える理論を築こうとする立場だとされる。具体的にはヘーゲルマルクスが想定されているわけだが、つまり弁証法史観や唯物史観といったように歴史から「解釈」や「意味付け」を引き出す姿勢を指している。
 分析的歴史哲学は特定の解釈を提示することからは距離を置く。関心は歴史記述における概念や方法についての分析に向けられる。示されているのは「歴史の記述は物語の形式をとる」という主張。過去の出来事は、あとから起こる出来事と結び付けられて物語として組み上げられることで把握できるものであり、そうした物語形式と不可分なのだと述べられている。
 この主張は、未来が不可知であるということに結び付いている。説明に際しダントーは、「理想的編年史」という概念を提示している。もし理想的な目撃者がいたら、完全な歴史記述が可能だろうか。仮に、世界のあらゆる場所、あらゆる人間の心のなかさえもすべて見通し完全な編年史として記録できるような仮想的存在がいたとして、しかしそれでもその者には不可能な記述がある。たとえば、「三十年戦争は1618年に始まった」という歴史記述。これは1618年時点では不可能な記述だ。歴史は、あとから振り返って初めて意味が与えられ、「始まり」から「終わり」に至る変化というかたちで説明される。歴史が同時的にではなく遡行的にしか語れないというのは、1618年の時点で戦争が30年続くことが決してわからないように、われわれが未来を知り得ないからである。あとから起こった出来事との関わりによってひとつの変化として説明する形式、それが物語に他ならない。


歴史という優位の地点から私たちの行為がどう見えるか知らない私たちは、そのかぎりにおいて現在に対する制御力を欠いている。歴史の不可避性というようなものがもしあるとすれば、それは自力で、自らの本性にのっとって推進する社会過程に起因するというより、自分が成し遂げたのがなんであるか明らかになったときには、すでに手遅れでなすすべもないということによっているのである。[…] 未来は、もはや現在になすすべもなく手遅れになったとき、はじめて私たちの手に落ちる。なぜならそのときそれは過去であり、制御しえないからである。私たちはその意味がなんであったのかを見いだすにすぎず、これこそ歴史家の仕事にほかならない。こうして歴史は歴史家によって作られるのである。(p351)


 歴史は実体としてあるのではなく物語形式による記述と不可分というのは、歴史は現在から記述されることで成立する、という構成主義的な考え方と言える。
 しかしだからといって歴史の解釈が無制限に許されるわけではない。この本では、歴史と虚構は史料的証拠と概念的証拠の用いられ方によってはっきり区別されている。ダントーの歴史哲学はホロコースト否定論を容認するようなものではない、というのは現在の社会状況においては殊更に注意が必要な点だろう。*1



[メモ]

  • 歴史文にのみ可能な記述
      • 歴史文は、証人を持ち得ないようなかたちで出来事を記述する。
        • 「ペトラルカがヴェントー山に登ったとき、ルネッサンスの幕が切って落とされた」→その場にいた者も、未来を先取りするこの記述をおこなうことはできない。
          アリスタルコスは、コペルニクスが1543年に発表した理論を先取りしていた」→時間的因果関係の逆転。時間的に前の出来事が後の出来事によって意味付けられる。
          未来についての知識を持たないかぎり、これらの記述を出来事が起こったその時点でおこなうことは不可能。理想的目撃者による理想的編年史は、出来事を原因として記述することはできない。
      • 歴史文の役割
        • 歴史においては、人間の行動はその行為より未来の出来事に照らして考察され、未来の出来事との関係で意味付けられる。
          われわれが過去の当該時点での目撃者が知るようにその行為を知り得ないことは、欠点や不備ではない。歴史家が行為を時間的パースペクティブのもとで見ることができるのは、行為者およびその同時代人が原理上持つことができない特権・利点。
          歴史家がおこなうのは、行為を目撃者のように知ることではなく、後の出来事との関連から時間的全体の部分として知ることだからであり、歴史的な文は、私たちが現在の世界で見出すことを組織化することを可能にする。

  • 物語形式
      • 物語文
        • 歴史叙述において最も典型的な種類の文。時間的に離れたふたつ以上の出来事を指示する。通常、過去時制で書かれる。
      • 物語形式
        • 物語は、説明の形式。始めから終わりまでの変化がどのように起こったかについて記述・説明する。
          歴史文は物語形式を用いて、変化を顕在化させ過去を時間的全体に組織化し、何が起こったかを変化によって語ると同時に、それらの変化を説明する。
          起こったことの説明を示せていることが、有意味な物語。
        • 歴史説明と因果的説明には何ら本来的な差はなく、因果的説明はすべて物語形式を備えている。

  • 説明の正当化と一般法則
      • 有意味性と検証可能性
        • 検証とは記述されたかたちで文が指しているものを経験することだから、証人を持ち得ない歴史的な文に対しては、検証可能性というのは適切な基準ではない。
        • 物語は、意味のある出来事のみを叙述する。(結果的有意味性)
      • 歴史とフィクションの違い
        • 歴史はフィクションと異なり、入手可能な証拠への適合性を真偽の規準とする。
        • 歴史は、史料的証拠と概念的証拠を援用する。
          フィクションは概念的証拠を大量に援用し、史料的証拠は相対的にほとんど用いない。
          未来の出来事については、概念的証拠しか持ち得ず、史料的証拠が一切ない。
      • 史料的証拠
        • 史料によって過去を見出すことが初めて可能となる。史料を通して過去を見ることによってのみ、史料自体を見ることができる。(あるものを証拠と見なすということは、既にその証拠の対象について言明をおこなっているということである)
      • 概念的証拠
        • 歴史文は、人間の行動様式にかかわるさまざまな前提に取り巻かれている。
        • 歴史文では、一般法則(一般的な自明文)によって出来事の原因についての説明が正当化される。
          Kが出来事Eの原因だったと断定することは、Kに類する出来事はEに類する出来事を引き起こすという意味の一般法則。ex. 「人々は(通常)、寒いと(十分に)感じるとき、(何か)火を(多かれ少なかれ)焚く(傾向が概してある)
        • 物語を構成するには、物語が説明的であると認める場合と同様、一般法則を使用する必要がある。物語による説明で、変化とそれに割り振られた原因の関係は一般法則に包摂される。
     

*1: これについては、ダントーに連なる「歴史の物語り論」を展開する野家啓一と上村忠夫・高橋哲哉との間でおこなわれた歴史修正主義をめぐる議論を参照。(cf. 野家啓一『物語の哲学』増補新版へのあとがき)






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell