::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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古田徹也 “このゲームにはゴールがない ──ひとの心の哲学”






 言語哲学のアプローチで「心」というものに迫る本。
 心身問題や他我問題などさまざまな難題を孕む「心」というものに対して、「心とは何か」という問いよりも、そもそもその「心」という語・概念で何を意味しようとしているのか、それはコミュニケーションの実践のなかでどのように用いられているものなのか、という問いから考えていく。
 「心」にまつわる懐疑論は言語的混乱に基づくのであって、まずそれらを整理するべきだというアプローチをとる。ただそうした「混乱」は理論の失敗というより、むしろ悲劇と見るべきであって、「心」というものが「虚偽」や「振り」を含みながら日常のコミュニケーションの実践のなかで扱われるあり方が生の価値につながっている──という内容。

  • 主題
    • 「他者の心を確実に知ることは果たして可能なのか」という他我問題に対して、懐疑論者は「真の意味で他者の心を知ることはそもそも不可能である」と主張するが、この懐疑論は何を言っているのだろうか/何を意味しているのだろうか。

  • 主な参照先:カヴェル、およびカヴェルを経由したウィトゲンシュタイン

  • 注記
    • 他者の心についての懐疑論には以下のようなタイプがあると考えられる。
      • (1) 外界についての懐疑論の一環としての、他者の心についての懐疑論
      • (2) 他者の心の存在についての懐疑論
      • (3) 他者の心中についての懐疑論
    • 本書では我々の実生活に浸透している懐疑論として「(3) 他者の心中についての懐疑論」を扱う。


 「知っている」とはどのようなことなのか 
    • 「我々は外界や他者の心について本当に知っていると言えるのか」ということを考える前に、そもそも「知っている」とはどのような概念なのか。
      • 「知っている」という概念は通常、知らない可能性がある場合にのみ用いられる(ウィトゲンシュタイン)
    • 懐疑論者:「人は外界について何も確かなことは知らない」(「他者に心が存在するかどうか私は知らない」)
    • ムーアの反論:「ここに私の手がある」「地球は、私の生まれる遥か以前から存在していた」等は確実な知識である、といった素朴な実在論的主張
    • ウィトゲンシュタインの批判:ムーア命題は、そもそも「知っている」「知らない」という概念自体が普通は適用されない事柄。何らかの根拠によってその存在が確証されているような事柄ではなく、実践の前提として疑いを免れている事柄に他ならない。
    • 我々が立てる問いと疑いは、ある種の命題が疑いの対象から除外され、問いや疑いを動かす蝶番のような役割をしていることによって成り立っている
 
 ウィトゲンシュタインの「規準」「文法」概念 
    • 痛みを「痛み」といった言葉で呼びうるのは、その種類の感覚が「痛み」であるための諸々の「規準」があるから
    • 〈痛みそのもの〉は痛みの諸規準とは独立のように思えるかもしれないが、痛みを感じていることを自分自身が理解するために、痛みを感じていることの規準(=「痛み」という概念の文法)が必要であり、それらが組み込まれた生活形式が必要となる
    • 我々が生活を営むうえでの基礎的な概念の文法的規準に従っていることが、互いに理解し合うことを可能にするそもそもの条件

    • 規準
      • 規準=定義というわけではない。規準は、何かの存在を確実に立証するためのものではない
      • 規準の充足は、確実性ではなく関連性をもたらす
      • 規準は「虚偽」「振り」を可能にする

    • 「感覚は私秘的なものだ」という文は痛みの概念の文法を語っているだけにすぎない
    • 「なぜ他者に心が存在するとわかるのか」という懐疑論者は、規準の充足が他者の心的状態の中身を絶対確実に保証することを要求しているが、それは的外れな要求

    • 心的概念は、構成する諸概念同士が互いに関連して位置づけ合うという全体論的性格によって輪郭づけられる(デイヴィドソン)
    • 証拠として機能する諸規準自体に不確実性が組み込まれている心的概念は、本質的に揺らぐ概念
 
 「心的なもの」という概念は何を意味するのか 
    • ウィトゲンシュタイン:それは内面にあるのではなく、それが内面であるのだ
      • 「心」という言葉に対応する私秘的領域が身体内に存在するから他者の心中が不確実だというのではなく、我々はそのような不確かさがつきまとう状況を「心」「内面」といった言葉や諸々の心的概念によって意味しており、「心的なもの」は我々が営むそのような言語ゲームのうちに存在する。

    • 懐疑論の教訓:人間が世界に対して持つ関係は〈知る〉とか〈知らない〉という言葉で懐疑論者が考えているような関係ではなく、〈受け入れる〉と表現すべき関係である。
 
 言語ゲーム 
    • 子どもは何年もかけて、言葉を用いた虚実入り交じるコミュニケーションの複雑な言語ゲームを習得していく。
      • 「嘘」や「演技」といった能力とそれに伴う諸々の理解の獲得にも、「見掛け」「現実」「事実」「多面性」「多義性」「意図」「虚偽」「信念」といった基礎的な概念を自ずと理解しているということが含まれる。
    • 我々はそのようなゲームに参加できるがゆえに、互いの行為やその理由などを、しばしば誤解しつつ理解することができる。
      重要なのは、この「しばしば誤解しつつ」というのは、むしろ理解が成立するための条件だということ

    • 敢えて、このゲームのゴールないし目的を挙げるとすれば、それは、ゲームを終わらせないことそれ自体である。

    • 我々は自分たちの心的状態について、まさに普通に振りをしたり嘘をついたりして暮らしているし、お互いにそのことをよく了解している。
    • 我々が他者を見るときの一定の心構えは、懐疑的なものとして特徴づけられるべきだ。
    • 他者に対してしばしば懐疑的な眼差しを向けること自体が、他者を他者として受け入れることを部分的に構成する。



 






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell