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 稲葉振一郎 “「公共性」論”







〈公共性〉という概念については、どこかでちゃんと学んでおかなければ...と思っていていい本が見つからないでいたのだけど、この「公共性」論を見かけたので、読んでみた。


「公共性」論

「公共性」論



最初の方ちょっとわからなかった...というか話がいろんなところに行ったり来たりして、本筋が何なのかよくわからなかったのだけど*1、3章以降からどんどん見通しがよくなってくる。
とくに3、4、8、9章。およびエピローグ。

とはいえメモを取ってまとめながらでないとまったくついていけなかった。
以下、整理したもの。整理してみると非常に明解。
ハーバーマスアレントがベースで、これにアガンベン〈ホモ・サケル〉と東浩紀動物化〉が絡むというのが基本的な構成。








整理

■世界図式

ハーバーマスをベースとした「自然/生活世界/社会システム」の三項図式をさらにアレントに対応させて、
 自然 [私的領域] / 生活世界 [公的領域] / 社会システム [社会]

近代とは、〈生活世界〉と〈社会システム〉との間にズレが意識されるようになった時代。
(このズレの克服を目指す理念が、〈公共性〉)
〈社会システム〉は個人にとってはほとんど〈自然〉と変わらない操作不可能な所与として存在するが、集合的なレベルでは意図的に操作可能・操作しなければならない対象、という両義性がある。この両義性が、本書での大きなポイント。



 公共性の構造転換ハーバーマス

 〈市民的公共圏〉は18·19世紀に理念として確立したが、その実体化はある程度にとどまった。理念に先導された制度が理念の腐朽や陳腐化をもたらす。理念と現実の差は幻滅を生み、理念のリアリティや訴求力は失われていく。とはいえ〈公共圏〉の理念は、現実の社会を批判する有意義な力をいまだ持っている。〈近代〉とは、この理念によって現実の社会を少しでも理想的な社会へ近づけようとする、いわば「未完のプロジェクト」であると考えることができる。それはすべての人間を〈人間化〉することを目指す啓蒙運動であるとも言える。
 ハーバーマスの〈公共性の構造転換〉は産業構造転換に基づく段階論であるが、公共圏のインフラストラクチャーであるコミュニケーション・メディアの歴史を考慮するならば、公共性とは単に衰退する一方のものではなく、新たなメディアの生成とともに、絶えず新たに勃興していくものである、と言うことができる。つまり〈公共性の構造転換〉とは、段階的な移行の歴史ではなく、実際には複数の構造転換が起こっており、かつ、今後も起こり得るだろうと考える方が妥当である。




■公共性とは

この語はハーバーマスの〈Öffentlichkeit〉から来ているが、これは抽象概念というよりもっと実体的な何事かを指しているため、〈公共性〉よりも〈公共圏 public sphere〉と呼んだ方が適切、とされている。



 公共性(公共圏)

 〈公共性(公共圏)〉とは、大規模な社会において、対面的・ローカルな共同体の範囲を越えたレベルでの全域的な「共通知識」が成り立っていること。つまり全域的な「共通メタ知識」のこと。
 〈群れ〉的な〈共同性〉とは異なり、自然で自明な所与ではない相互認知環境(スペルベル&ウィルソン)を、人為的・意図的につくり、維持し続けることでもある。
 現代では人の相互認知環境は、建物・都市という不動なものにとどまらず、可動的で耐久性のある道具・機械および社会システムから成っている。このような社会システムを含む人工物のシステムは、個人にとっては操作不可能な環境条件(〈第二の自然〉として立ち現れる)ではあるが、集団的・公共的には意図的に操作可能である。〈公共性〉は、こうした人工環境の安定性と可変性との二重性に立脚しており、〈公共性の感覚〉とは、この両義性を自覚することである。




■その他のキーターム


 〈人間性(人間の条件)〉とは自明なものでも不変のものでもなく、人為的に構築し維持しなければならない。アレントの意味で〈人間的〉であることは〈公共性〉の下でのみ可能であるが(つまり〈人間性〉·〈人間の条件〉は〈公共性〉と読み替え可能)、このように〈人間〉を成り立たせる〈公共性〉を構築し維持することは簡単なことではない。そして「そもそもなぜそのようにして〈人間的〉であることを目指さなければいけないのか」自体が開かれた問いとしてある。



 ホモ・サケルアガンベン

 アレント的な「人間」に対するオルタナティブ。〈例外状態〉に置かれ〈剥き出しの生〉を生きる人々。
 [権利の主体=〈人間〉] ではなく、[剥き出しの生=〈動物〉]。
 剥き出しの生は暴力によって小突き回されるだけでなく、快楽によって飼い慣らされることもあるのではないか?
 →東浩紀動物化〉:ある意味では幸福かもしれない剥き出しの生の問題につながる。



 人を公共圏から追放・あるいは隔離すること。あるいは人が自らそこから撤退してしまうこと。
 動物化されると、〈社会システム〉は単なる〈自然〉として体験されるようになり、そこでは〈生活世界〉と〈社会システム〉の分離についての危機感自体が消滅される。つまり〈公共性〉が失われる。



 忘却の穴アレント

 誰もがいつなんどき落ちこむかもしれず、落ちこんだらかつてこの世に存在したことがなかったかのように消滅してしまうというかたちでの、追放・隔離。
 強制収容所が人を公共圏から強制的に排除する仕組みであるならば、テーマパークは、自発的に公共圏から退出する人々にとっての安住の地と言える。
 〈忘却の穴〉は、公共世界に開く。しかし公的領域がすべてでありこの地平の外には何もない、と思わせることもまた一種の忘却(〈存在忘却〉)。



 環境管理型権力のモデル

 近代的主体化権力:〈学校〉〈工場〉:境界が明解。公私の区別ははっきりしていない。古典的都市に対応する。
 環境管理型権力:〈収容所〉〈テーマパーク〉:境界そのものが意識されない。近代アーバニズムに対応する。



 ハイパー収容所/テーマパーク

 環境管理型権力により動物化が徹底された状態の想定。
 完璧な「忘却の穴」同様、原理的に脱出が不可能。脱出の可能性を云々する以前に、自分がそこから脱出すべき閉域にいるのかどうか自体が判定不能
 つまり〈ハイパー収容所/テーマパーク〉に対しては、その内側から有効な批判を提起することができない。
 〈ハイパー収容所/テーマパーク〉が、「追放」「抹殺」のための暴力装置ではなく、自主的な選択に支えられた理想郷であったとしたら、そこに隠遁することを自発的に選ぶ人がいてもおかしくはない。これは簡単に否定できることなのか? あるいは、そこに問題があるならそれはどのような問題なのか?




■この本で登場する主な軸

a. ハーバーマス / アレント
b. リベラリズム / コミュニタリアニズム
c. ひ弱な・他律的リベラリズム / 逞しき・自律的リベラリズム
d. 公共性 / 動物化
e. 道具的理性·システム合理性 / コミュニケーション的理性·コミュニケーション的合理性

aおよびb:
 ハーバーマス
  権利論的リベラリスト動物化せずにリベラルな社会の〈公共圏〉に参加するような条件整備が必要。
  〈公共性〉に対し楽観的。(コミュニケーション的理性>道具的理性)
 アレント
  コミュニタリアン:果たして公共圏の条件整備がどこまで可能かについて懐疑的。
  〈公共性〉に対し悲観的。(人工物の群れは第二の自然として人間を包囲していく→動物化へ)
c:
公共性が成り立っているということは、安定性と可変性との絶妙なバランスが成立しているということ。
これに対して
 他律的リベラリズム・保守的自由主義:安定性のほうを重視
 逞しき(自律的)リベラリズム:可塑性を重視 (伝統や公共性に対してはデリカシーを欠如)

dおよびe:
あるいは、〈人間(性)〉(アレント) /〈動物(化)〉(東浩紀)・〈ホモ・サケル〉アガンベン
この[公共性 / 動物化]という対立項を軸として公共性の必要性を考えるのが本書の骨子。

道具的理性 / コミュニケーション的理性 ハーバーマス
 道具的理性:状況への受動的·「動物」的な適応のモード
 コミュニケーション的理性:自らの置かれた立場を自明視せず、その人工環境としての可変性に自覚的で、可能とあればそれを変えるべくはたらきかける用意がある態度



■全体の展開

 公共性とは何か?ということよりも、公共性は必要なのか?という考察に多くが充てられている。
 公共性は必要なのか? なぜ必要なのか? あるいはなくてもいいのか? なくても幸福に生きられる状態があり得るとしたら、それで何か問題が生まれるのか?

 ここで〈公共性〉に対置する概念として持ち出されるのが、東浩紀の展開した〈動物化〉という概念である。
 すなわち、人が動物化しても幸福に暮らせる〈よき全体主義〉の世界が可能であったとき、動物化はよくないことなのか? 人を〈人間的〉たらしめる〈公共性〉を捨て、動物化を是とするとき、それでもそこに問題はあるのか? そもそもなぜ動物ではなく人間を目指さなければならないのか?

 〈よき全体主義〉(ハイパー収容所/テーマパーク〉を否定することは、〈全体主義〉や〈収容所〉が孕む先入観的イメージにもかかわらず、簡単なことではない。〈全体主義〉と、強制や暴力や抹殺などがない理想郷とを両立させることは理論的には不可能ではないからだ。極端な想定ではあるとしても、〈よき全体主義〉は実現し得るし、このとき、人々がそのような(ハイパー収容所/テーマパーク〉へ自ら進んで参加していくことを否定する論法はない。そしてそうした想定のもとで〈公共性〉の意義は見えてくる。

 完璧な〈忘却の穴〉を実行するほどに洗練されたそのような全体主義は、現実にはあり得ないというのも確かなことではあるが、本書のスタンスは〈よき全体主義〉も結局は否定されねばならないとする。しかし一方で、人々を全体主義的・動物的状況へ受動的に適応させ得る〈道具的理性·システム合理性〉も、全面的な全体主義化を構築する〈環境管理型権力〉も、それら自体で否定されるべきものではないと捉える。
 〈よき全体主義〉を含む全体主義を批判するには、抵抗者の側だけでなく、その管理者の側に立って問うことが求められ、そこではコミュニケーション的理性の再建と同時に、道具的理性の再構築が必要となる。








感想

1.
印象に残ったところ。

p131 そして具体的な「公共圏」とは、実際には、すべての人が一堂に会し、あらゆる情報を取り交わす「広場」などでは決してありません。

 ここはいくら強調してもしすぎることはない、と思う。
 なぜなら、〈公共圏〉を、ヨーロッパの“カフェ文化”の延長のようなものとして理想化する態度がよく見かけられるからだ*2
 そのような仲間内のサークル的コミュニケーションの場、というものがあるのはいいことだと思うんだけど、でもそれは「公/私の区別」とかを考えるときに有効なものとはぜんぜん違うはず。
 〈公共性(公共圏)〉は、もっとマクロな、社会を成立・維持させる枠組みとしての側面を意識して考えた方が的確に捉えられると思った。

p139 そしてそのように考えるならば、原則的には複数の、ありとあらゆる「公共性(公共圏)の構造転換」が現にあったし、これからもありうるだろう、ということになります。

 ここも、今までの自分の〈公共性〉理解を変えるに足る部分。


2.
 「都市」や「公共施設」「集合住宅」、さらには都市における「住宅」を考える場合に、〈公共性〉はそれらの背後にある重要な概念だ。
 ところが、これらの文脈で公共性が語られるとき、その捉え方はとても素朴でユートピア的なものが多いように思っていた。端的に象徴するのが、公共施設の計画案などでの、広場的な空間を描写した計画パースだ。それらは必ず『人々のコミュニケーションを促進させるために〈広場〉のような空間を計画した』などのフレーズを伴い、その通りに人々が楽しげに広場で過ごしている様子を描いている。...それは施設を説明するための単なるイラストにすぎなくて、そこに深い意味を読み取る必要なんてないかもしれないけれど。
 でも実際の公共空間、たとえば公共施設や公道・交通機関・あるいは都市一般、においては、別に人々が四六時中仲良く語らってたりするわけではない。見知らぬ人同士の間ではなおのこと。もちろん、極端な理想主義者が思い描くようなユートピア的情景と寸分違わぬコミュニケーション状況が実際に起こることだってあると思うけど、でもそこは同時に人々のさまざまなコンフリクトの舞台であったり、単にもっと平坦な出来事の場にすぎなかったりする。当然のことながら。
 そして、単なる一枚の情景描写にすぎないそのイラストは、そのようなどうでもいい、あるいはときにネガティブな情景すべてを無いものとして隠蔽する役割を、確実に有している。意識的であろうと無意識的であろうと、そこでは公共空間のユートピア的側面だけが取り出され、美化される。だからといってもっとディストピア的な描写を提示する、というのはまた違う話になってしまうだろうけど...。
 でもここには、〈公共性〉が暗黙のユートピア的概念として捉えられていることが示されていると思う。
 そのことを、この本の冒頭を読んで思い起こした。


 第一章のページをめくって最初に目に入るのが、“バズワードとしての「公共性」「市民社会」”という最初の節のタイトル。ここで〈公共性〉がバズワードであると言われていることに非常に納得した。
 最近では〈web2.0〉なんかがバズワードとして捉えられてたと思うけど、つまりその言葉を言えば何かを語った気になって、でもその内容自体にはまったく触れられることがなく、それでいてその意味はみんなが共通に理解しているはずという期待が伴われている、そのようなものとして〈公共性〉という語があることが言われている。

p9 〜「公共圏」といった言葉は 〜 現代社会批判の基軸となると同時に、一種のユートピア的理念としてもはたらいています。

 ユートピア的理念。
 この語が最初から現在までずっと一貫してユートピア的意味合いをもって使われてきたわけではないことは、続く文章にて語られている。しかし、それではそもそも〈公共性〉とは何なのか?
 ここから先は、(多少まわりくどい道をたどりながらも)この問いに答え、さらにその先にある問題を語るという本書全体の話になっていくけれど、結局のところ〈公共性〉なる概念は、やはり何か目指すべき対象として据えられたもの、何かのかたちで人々を導く理念であるということがわかってくる。
 この理念はたびたび現実との差において人々を幻滅させ、その働きを変化させてきたけれど、まちがいなく〈近代〉という時代を牽引してきたものでもある。だとすれば、近代を基盤とした現代において、〈公共的〉であることがある種の理想的な情景として描かれてしまうことは納得できることだ。
 しかし〈公共性〉という概念自体は、もう少し複雑な問題を抱えている。この語が示すユートピアとは別種のユートピアの可能性があるためだ。それが本書で言われる「徹底的に動物化した状況」、あるいは〈よき全体主義〉の可能性である。
 最終的に問題とされるのは、〈公共性〉は自明なものとしていつでも在るわけではなくて、その成立および維持が必要なことだ。それは〈公共性〉から撤退して動物化全体主義化へ向かう選択肢があり得る場合において特に深刻なものとなる。
 「完璧な全体主義」がほぼ不可能であることはこの本で語られている通りだけど、程度の問題はあっても動物化が現代において現実的に進行しているとするならば、たとえば公共施設の計画を説明するようなときにはもはやユートピア的な描写の仕方は効果を失っていくのかもしれない。








*1:たとえば市場経済を語るためのヘーゲルグラムシ、スミスあたりの話とか。あとは9章で唐突に「経験機械」(ノージック)、「水槽の中の脳」(パトナム)の話が出てくるところがとくに。でもこれらは、本筋を語るにあたっての前捌き的なものと考えればそんなに混乱しない。

*2:ハーバーマスがその牽引役なのかと思っていたのだけど...。そうではないような気がしてきたので、どっかでちゃんと読まないと。






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―Angela Mitchell