“Laitakaupungin valot”
Aki Kaurismäki, 2006
“リンダ”と“天然コケッコー”を気に入った山下敦弘が“日本のカウリスマキ”と呼ばれてるという話なので見てみた。
見てる途中までは「うわー、これ、きついなー...」という感じだったけど(メンタルな負荷という意味で)、でもそうは言っても目が離せなくて、見終わった今は自信を持って言える。とても良い映画。
(以下、ネタバレ的な話を含む)
映画とは、約2時間たっぷり楽しませてくれるエンターテイメントにすぎないのか?
あるいは、2時間かけて描写される物語と言うべき?
それとも美しい映像で綴られた絵巻物のようなもの?
この映画はそのどれでもない。
78分の映画だけど、この映画で意味のあるところは、最後の一瞬にしかない。
冒頭から延々と、救いのない展開が続く。なんか“敗者三部作”の最終章*1って言われてるらしいんだけど*2、その身も蓋もないタイトルの通りに、徹底して負け続けていく。もし途中で見るのをやめていたら、たぶん自分が今まで見たあらゆる映画の中でももっともダウナーな映画としてのみ記憶されたことだろう。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」や「セヴン」のようなちょっと非日常的な種類の救いのなさじゃなくて、現実に起こり得る範囲内での、リアリスティックな。人間の「ダメな部分」が、良くない方向に噛み合って転がり落ちていくとこうなってしまう、という感じ。途中まで「タクシードライバー」に似てるかな...という雰囲気もあったけど、こっちの方が描写が淡々として動的なシーンもないだけに、もっと突き刺さってくる。精神状態がやばい人は絶対に見ない方がいいと思う。
でも最後まで見通すことができれば、むしろ爽やかな印象が残る。
この映画のジャンルは何かと問われたならば、たぶん見始めた人は肯定しないだろうけど、〈ラブ・ストーリー〉だとするのがいちばん妥当だと思う。(見終わった人はたぶん賛同するはず。)
つまり、〈男〉と〈女〉が登場する。
〈女〉は、ストーリー上重要な役割を担うマフィアの情婦(ジャケットに映っているので、最初誰もが誤解すると思う)、……ではない。
この映画をラブストーリーたらしめる要素は、終盤に入ってからのごくわずかな部分にしかない。
救いも希望も勝利も獲得もないままひたすら続いて、最後に、それらをまとめて埋め合わせるに足る瞬間がある。それは「心が通じること」と言っていいと思うんだけど、でもそれは〈男〉の側の視点というより〈女〉の側で見たときによりはっきり思えることかもしれない。
あまり感情移入して見てしまう映画でもないのだが、一応ふつうに見ると主人公の〈男〉の立場で見ることになる。でも〈女〉の立場に寄って見てもよくて、そうするとまた違った印象が感じ取れる。〈男〉の方は何考えてるかよくわからなくて(というか単に何も考えてないのかも*3)、〈女〉の方はその思いがわりと現れている。でもふたりは強く想い合っているわけではない。そこにはいつも何か距離があって。それが最後に、少し近づけられる。それはほんとうにごく些細なことなんだけど、でも確実に。そしてこの瞬間のためにすべてがあったんだ、ということが明確にわかる。
ちょうど「ブレードランナー」が、最後に一瞬だけ現れる青空のために残りのすべてを絶え間ない雨と陰鬱で塗りつぶしたことと同様に。
極論を言うならば、この映画での77分55秒は、そのあとに訪れるたったの5秒に意味を与えるためだけにある。そこに至る道筋はことごとく、観る者に対して娯楽にはならず、複雑な物語も意義深い洞察も示さず、とりたてて美麗な絵も提示しない。最後に訪れる5秒程度のシーンが、すべてを意味あるものにする。
もしかするとそれは、映画の中でそうであるのと同じように、人生においてもそうであると言えるのかも。つまりある短い瞬間の出来事が、人生のそれ以外が何もかもどうしようもないものであったとしても、それら全部を補ってなお余りあるものに変えることがあり得る。