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 ミケランジェロ・アントニオーニ “赤い砂漠”

赤い砂漠 デジタルリマスター版 [DVD]




“IL DESERTO ROSSO”
 Michelangelo Antonioni, 1964



0.
[概要]
 イタリアの工業都市ラヴェンナに住む主人公ジュリアーナは、交通事故の後遺症のため、安定しない心理状態に悩まされている。夫は優しくはあるが、ジュリアーナの心の癒しにはならない。彼女は夫の仕事仲間としてやって来た技師コラドと次第に関係を深めていくが、それでも彼女の心は救われることはない。
 工場の荒んだ景観とジュリアーナのコントラストがとてもきれいに描かれている映画。




1.
 オラファー・エリアソンの作品集に、エリアソンとアントニオーニを比較して語った論考が載っているのを見て*1、アントニオーニのカラー映画に興味を持った。
 その文章では、近代以降に〈リアル〉という概念が変容したという認識を前提とし、自然/人工・リアル/シミュラークルという対立が無効化したこの状況をボードリヤールの言葉を用いて〈ハイパーリアル〉と表現しているのだが、これをモダニストの文脈で表したものがアントニオーニのカラー映画であり、ポストモダニストの文脈での体現がエリアソンの“グリーン·リバー”シリーズであると対置されている。
 モダニズムはトータリティとしての視座を標榜したが、しかし実際の世界は操作不可能で無秩序な混沌であるためにモダニズムはひとつの限界に行き当たる。この状況に対し“グリーン·リバー”が、モダニズムの考えた「世界を掌中に収める理想的人間像」にもはや拠ることなく世界とのより両義的・矛盾的な関係を表現しているとすれば、アントニオーニは、世界を確固たる現実として知覚する人間像に対する疑義を描いた、というのがこの論考の概要。
 ここでは、エリアソンはアントニオーニよりも複雑でパラドキシカルな手法で現代のハイパーリアル的状況を表現した、という対比がされているのだが、しかしアントニオーニこそはそもそも〈リアル〉という概念に疑義を抱いた先駆である、という位置付けが与えられている。
 ポイントは“赤い砂漠”がアントニオーニにとっても時代全体としてもちょうどモノクロからカラーへと移行する段階の映画であるというところにある。つまりそれまでの白黒映画に色彩という要素が付け加わったことによって、映画はより〈リアル〉なものに近付くことができると考えられた。...しかし本当にそう言ってしまってよいのだろうか。技術的に現実に接近したことが、逆に〈リアル〉の意味を問い直させる。色のなかった映画から、現実世界と同様に色がある映画へ移行することが、そのまますなわち映画自体を〈リアル〉に近付けるものと言えるのだろうか? 〈リアル〉とはそのようなものなのか? そもそもいったい〈リアル〉であるとはどういうことなのか?
 新規のテクノロジーが物事を見通しよくさせるという認識に行かず、逆にその新たな技術を用いてリアルの曖昧さを描いたのがこの“赤い砂漠”だ、という見方は非常に現代的だと思えた。




2.
 ところで、この映画について一般的に言われていることとして、その主たるテーマは「現代人の孤独」や「コミュニケーションにおける不安」といったところにあり、これを当時登場したばかりのカラー技術を用いて描いた点において意義があるとされているようなのだが、さすがに40年経った今ではテーマ面でも技術面でも目新しいとは言い難く、その方向での関心はあまり湧かなかった。
 代わりに魅せられたのは主演モニカ・ヴィッティの神々しいほどの美しさであり、また興味を引かれたのは舞台・シーン構造の構成的な側面。
 モニカ・ヴィッティは表情や仕草もさることながらそのファッションがすばらしく、テーマとか考えないでもそれらだけで良い映画だと思えるほどだったのだけど、ここでは全体的なシーンの構成について考えてみたい。


 この作品での「孤独」なるものはひとりきりのときに感じる孤独とは別のもので、意思疎通の成立し難さについて言っていると考えられる。つまり特定の集団のなかにいるとき、あるいはふたりきりの濃密なコミュニケーション状態のなかにあるときに感じてしまう、他人とわかりあえない感覚、そのようにひとりよりむしろ複数の人々の間にいるなかでこそ生まれてしまう孤立感こそが現代的な孤独だと捉えられていると思うのだが、この作品ではそうした感覚を、各場面の描写のみならず映画の全体構造によって浮かび上がらせていると感じた。
 以下、シーンの構成について整理した。





要点
 ・対称的構造
   シーンの対称性が顕著に表れているのが、冒頭および最後のシーン。工場の煙の下を歩く主人公と息子。
   また、前半での重要な場面の舞台となっている「空っぽの店」は後半でも出てきて、対比的な会話が為される。
 ・登場人物数の推移
   ひとつのシーンでの主な人物の数は、前半では3人以上の集団であることが多く、後半においてはほとんどふたりだけとなる。
 ・いくつかの特異なシーン
   全体的に近代性が強く打ち出された舞台が選択されているが、これに該当しない舞台がいくつかある。
    店  :旧市街といった感じの閑散とした街区にある前近代様式の建物。なおかつ、内装の施されていない空の状態の部屋。
    小屋 :きわめて原始的な建物。特定多数集団の親密かつ皮相的なコミュニケーションが展開される。
    島  :お話のなか。純粋に自然的。


 表中eに各場面での人物数を記しているが、前半から後半につれて人物数が減っていくのがわかる。前半で、多人数のなかでも感じられてしまう孤独(特にシーン07)に焦点が当てられているとすれば、後半では、一対一というもっと先鋭的なコミュニケーション状況にて意思疎通が成立しない様子へと焦点が移行している。
 このことは、前半の「店」のシーンで初めて近付いたジュリアーナとコラドが、後半の「店」のシーンでは決定的にすれ違うことになるという対比に鮮明に表れており、さらにこの後、貨物船に乗船を試みるジュリアーナが船員に語りかけるシーンでは、もはや言語自体が通じず共有するものがほとんどない完全な他者同士のコミュニケーションという段階にまで到達する。
 このようなコミュニケーションの極北に致る過程において、モダニズム様式で統一されたなかに散りばめられたイレギュラーなシーンが、物語展開上の転換点・強調されるポイントとして作用している。

 映画の流れをまとめるならば、集団から一対一のコミュニケーションへと焦点が移行するという大きな流れのなかで、主人公が異なる状況でさまざまなタイプの人と会話する様子が描かれ、そのどれにおいても確たる共感に至ることができず、最終的には完全な他者とのまったく成立しない会話へと到達して終わる、というものと言えるだろう。
 しかしそれは絶望への単純に線形な過程というわけでもない。というのはこれらの全体は、冒頭と最後で出てくる工場のシーンに挟まれていて、このシーンは直截に孤独や不安を表しているわけでもないからだ。そこでは、荒涼とした工業地帯の風景のなかで息子と手をつなぎながら、周囲に比して相対的に鮮やかなモスグリーンのコートに身を包むジュリアーナが映し出されている。直前の船員との会話においては狂気すら感じさせたジュリアーナは、ここではきわめて穏やかな表情を見せる。仮に〈現代的孤独〉なるものがあるにしてもそれは致命的なものではなく、生きていく上で受け入れなければならない所与の前提程度のものである、ということが示されているように思う。だからこそ冒頭と最後は同じシーンとなっていて、ストーリーが円環のように閉じられることで、日常性を意識させるのだ。




ASIN:B000XSEVLS(デジタル・リマスター)
ASIN:B00005FX1R(オリジナル)





*1:Michael Speaks “From the Red Desert to the Green river” ASIN:071484036X






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―Angela Mitchell