“MARIA FULL OF GRACE”
Joshua Marston, 2004
[あらすじ]
コロンビアに住む17歳の女の子マリアは、職を失い、望まぬ相手との子供を身ごもりながら、半ば自暴自棄になって麻薬の運び手となる道を選択する。行き先はニューヨーク。カプセル状に詰められた無数のコカインを胃の中へ飲み込んで隠し、飛行機へ。税関を無事にやり過ごさなければならないし、カプセルがもし体内で破裂すれば死に至る。彼女にとって目的地はまったくの見知らぬ土地で、知り合いもいないし言葉もわからない。まったく見通せない未来。
彼女はそんな道を自ら選ぶ。
マフィアの目の前で、いよいよカプセルを飲み込み始めるというあたりから、尋常ではない緊張感を伴う感情移入が開始される。
今回の行程ではマリアの他に3人の運び屋が同じ飛行機でニューヨークへ向かう。どう考えても、この全員が無事に旅を終えて大金を手にすることができる、なんてことは予想できない。
このうち何人かもしくは全員が、捕まるか、命を落とすか、それとも騙されて一銭ももらえないかもっと不幸な目に遭うか......成功以外のさまざまな筋書きが容易に想像できるほどに、とにかくリスクが大きすぎる。
そして彼女たちが命を賭して得ようとする報酬は、カプセル1個につき100ドル。一度に約50個を運ぶとして50万円。
それは人生を賭けるに足る額なのだろうか? 飛行機でコロンビアとニューヨークを行き来すること自体はたいしたことではなくても、失敗したときに生じること・・・投獄、家族への危害、そして死、それらとのバランスが釣り合っているようには思えない。
しかし逆に考えると、この額がこのリスクに釣り合ってしまっているのがコロンビアという国の実情なのだろう。コロンビアに限らず、同じような、さらにはもっと過酷な状況にある国は他にいくらでもあって、リスクとリターンのバランスはあらゆる人間に等しく定まっているものではない。人の価値は、冷酷なまでに相対的だ。
この映画の最大の特徴は、身体への直接的な訴求力を持った描写によって、鑑賞者を登場人物の立場に引きずり込む強い効果を持っていること。
そこからは、〈ここ〉ではない別様の人生の可能性が示される。この映画こそは、〈世界〉を広く開かせるタイプの映画だ。