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 舞城王太郎 “阿修羅ガール”

阿修羅ガール






0.
 おもしろかった。
 ちゃんと読み進めてみると読む前に持ってた先入観や最初ぱらぱらって見たときの印象とだいぶ違って、良い方に予想外の小説だったと思う。

 どういう小説か一言で説明するならば、「女子高生によるいまどきっぽい語り口のスピード感あふれる現代小説」...みたいな言い方をしてしまいたいところで、まさにこれが最初抱いていたイメージだったんだけど、でも読み終えた今では、そういう説明ではなくて「一人称による語りの可能性が提示されている小説」だというように言い表したい。


(以下ネタバレ含む)

1.
 たしかにこの本は、女子高生の脳内がそのまま書き綴られているかのような文体でできている。テンポよくリズミカルな口語体の文章で。
 ただし自分が思うのは、「女子高生」とか「女子高生っぽい語り口」とか「今風の口語体」みたいなことは──たしかにそのような文体で書かれてはいるけれど──この小説の意義としてはそんなに重要ではない。若い読者をターゲットにしてるとか現代風俗を効果的に描写しているとか、そういう観点もこの小説を語る際に特に有効なものではないと思う。
 この小説の特徴は、一人称での語り口によってある主体の思惟を忠実に再現しようと試みているところにあると思う。
 一人称といっても、古い私小説のように鬱屈してるわけでもないし、自意識に過剰に敏感でもなく、かといって内面描写が不足したドライな書き方でもない。あっちこっちに思考が飛び、妄想めいた事柄や自己反省的なことを交えながらも、逐次的に思惟をトレースしている。その思考内容に明晰な論理性はなく、きわめて取り留めがない。だけど人間の思考というのは論理矛盾やノイズを含みながら連続してるものであるとするなら、そのような思考の特性はここにきちんと表現されていると思う。たとえば人の思考のなかでは、何か結論めいたものに一旦たどりついたとしても、次の瞬間に自分でそれを否定したり、さもなければ全然別の事柄に焦点が移っていたりすることがある。論理的整合性という意味では、人の思考はまったく一貫していない。だけど、だとしてもその思考は、ある主体が思考しているというその一点においての一貫性を失うことは絶対にない。誰かがものを考えているとして、ある瞬間から別の人がその思考を担当するようになった、などということは起こり得ないはずだ。
 この小説でも、主人公は自分の脳内で自分自身に語りかけ、否定や賛同、連続と飛躍を繰り返しながら、その焦点としての〈自分〉が一貫して保持されている。──少なくとも第一部までは。


2.
 さて、この小説は三部構成でできているのだが、第一部は概ねそのような純粋な一人称の語りに終始する。
 ところが第二部ではこの「語り」は大きく変わり、ある種の夢のなかのような状況の連続や、さらには〈私〉であると思っていた人物が他の人物でもあるという一筋縄ではいかない状況が到来することになる。
 第一部はピュアにひとりの人物の思考をトレースして、一人称小説の形式を踏み外すことなく進行するのに、第二部ではそれが揺るがされる。

我思うゆえに我ありって言うけれど、もし自分と他人がどっかでくっついていて、相手の内側にお互い入ってこれたりするんだったら、ホントに我思ってるの?ってことになる。我思ってるつもりで、実は別の誰かが思ってることもありえる訳だから、我思ってると我思ってるけど、我思ってるんじゃなくて彼思ってるのかも知れない。じゃあ我ありってことにならない。
誰も皆、本当に自分が存在してるかどうかなんて判んないはずなのだ。それに皆、気づいてない。私とおんなじ体験をしてないせいだ。私はもう判ってる。おかげで何が本当で何が嘘なのかさっぱり判らなくなったけど、判んないんだってことだけは判った。
(p266)

 一人称で語られる小説の語りが、途中で急に違う人物のものに変わる。人物Aのモノローグから、人物Bのモノローグへ。
 単に複数の主人公で構成される物語、というわけではない。なぜなら人物Aは最終的に、自分は人物Bでもあった、と語っているからだ。叙述トリックともまた違う。
 しかしそれは実際、どういう事態なのだろう? AとBという異なる視点が同じ思考を共有していて、ある時点からそのふたつが分裂する...、というような書かれ方をされてはいるのだが、それがどういう状況なのかがよくわからない。


3.
 小説内で、ある人物Aが、実は人物Bであったということ、というのはどのようなことなのだろうか。
 いや、そもそもこのような抽象的な書き方では、何を言っているのかまったくわからない。具体的な名前で書かなければ。
 今ここに、主人公=桂愛子と、グルグル魔人=大崎英雄というふたりがいる。
 まず、三人称の語りで〈桂愛子は、実は大崎英雄だった〉と書いてみよう。
 しかしこれでは、桂愛子という人物は実は大崎英雄という名前だった、とか、大崎英雄という人物が桂愛子という人物に変装していた、というような意味に取れてしまう。この小説で起きているのは、こういうことではない。
 〈桂愛子と大崎英雄は、同一人物だった〉。これでもよくわからない。
 〈大崎英雄は桂愛子のもうひとつの人格だった〉。この書き方は、少し意味がわかる気がする。でも、「人格」というと同じ身体のなかにある事態のことのように見える。桂愛子という人物のなかに、大崎英雄という男性の別人格がある、というような。それはこの小説で起こっていることとは違う。

 一人称の語りで書いてみよう。
 桂愛子:〈私は、実は大崎英雄だった〉。
 桂愛子:〈私は、大崎英雄と同一人物だった〉。
 桂愛子:〈大崎英雄は私のもうひとつの人格だった〉。
 これらでも、まだ三人称のときと同じ問題が残っているように思える。

 桂愛子:〈私はあのとき、実は大崎英雄になっていた〉。これはこの小説で起こっている事態をよく表している文だと思う。
 ではこの同じ文を三人称で書くとどうなる?
桂愛子はあのとき、実は大崎英雄になっていた〉。
 これではやはり曖昧だ。

 文脈がないために意味がつかめないということが問題なのだろうか?
 それでは、文脈を追加してみる。実際の小説の構成をほぼ踏襲して。

パターン1.
 第一部〈桂愛子は○○○と考えた。そしてそのあと、桂愛子は○○○へ行った。そこで彼女は気を失った。〉
 第二部〈大崎英雄は○○○と考えた。そしてそのあと、大崎英雄は○○○へ行った。そこで彼は意識を失った。)
 第三部〈最後に判ったことは、桂愛子はあのとき、実は大崎英雄になっていたということだ。〉
パターン2.
 第一部〈私は○○○と考えた。そしてそのあと、私は○○○へ行った。そこで私は気を失った。〉
 第二部〈俺は○○○と考えた。そしてそのあと、俺は○○○へ行った。そこで俺は意識を失った。)
 第三部〈最後に判ったことは、私はあのとき、実は大崎英雄になっていたということだ。〉

 パターン1の一連の文章でも、何が起こっているかはわからなくもないように思う。しかし、いまひとつクリアではない...。
 パターン2はこの小説の実際の書かれ方とほぼ同等だ。大幅に省略はしているが。
 パターン2とパターン1との違いは何だろう。〈私はあのとき、実は大崎英雄になっていた〉という文が曲者だ。そもそもこの文章さえなければ、この小説の「わけのわからなさ」はないはずなのだ。

桂愛子はあのとき、実は大崎英雄になっていた〉
〈私はあのとき、実は大崎英雄になっていた〉
 前者では、ふたりを外から眺めている。後者は、桂愛子の視点から見ている。


 この小説で起こったことは、私=桂愛子が、桂愛子としての記憶や思考形式を保ったまま大崎英雄という人物の身体のなかに移っていた、ということ(ケースA)ではない。
 そうではなく、私=桂愛子が、大崎英雄としての記憶や思考形式が保たれたたまま大崎英雄という人物の身体のなかに移っていた、ということ(ケースB)が起こっている。

 〈桂愛子はあのとき、実は大崎英雄になっていた〉という文では、ケースAを表しているように見えてしまう。たとえば、桂愛子と大崎英雄の精神が互いに入れ替わってしまったかのような状況。この状況であれば、前述の文で意味が成されている。
 しかしこの文では、ケースBを表せていない。
 なぜならば、〈桂愛子はあのとき〜〉と言ったときの「桂愛子」とは、桂愛子の記憶や思考形式などを持っていることによって同定されるからだ。ケースBでのような、桂愛子の記憶や思考形式を持っていないものを「桂愛子」と呼ぶことができるだろうか?
 ケースBでは、私=桂愛子が、他人から見たときに桂愛子桂愛子と同定する際の根拠である「桂愛子の記憶や思考形式」を失ったとしてもなお残る何か、について語られている。そして、その何かが大崎英雄という人物のなかに移っていて、大崎英雄としての記憶や思考形式を通して世界を認識しているという状況、それがケースBで起こっていることだ。このとき、この「何か」とは、〈私〉ということばでしか表現できない。強いて言うならば、世界を認識する際の視点のようなものだろうか? しかしそれを文章で示すならば、そこで使われるべき語は〈私〉しかあり得ないだろう。だから厳密には、〈私=桂愛子はあのとき、実は大崎英雄になっていた〉ではなく、〈私はあのとき、実は大崎英雄になっていた〉という表現しか可能ではない。ここでは、もはや名前では指し示せないものについて語られているのだ。

 三人称の代名詞〈彼女〉であればどうだろうか?
〈彼女はあのとき、実は彼になっていた〉
 これでもやはりパターン1と同じ問題を孕んでいるように思う。
 つまり、〈彼女〉と言ったときには、やはり〈彼女〉を桂愛子というその人物と同定する根拠が必要であり、その根拠とは、他人が外からみて客観的に判断できる事柄──たとえば記憶であるとか思考形式とか*1でしかあり得ない。
 しかし、〈私〉という語は、そのような外部から観察し得る客観的な事柄一切が仮になかったとしても、なおそのとき残っている私というものを指し示すことができる。
 このことは逆に、〈私〉という概念が、記憶や思考形式等とは独立に存在する可能性を示しているのだが、しかしそれは独在論の底なしの迷宮への扉を開けてしまうだろう*2
 重要なのは〈私〉という語が、三人称では示すことのできないあるものを指し示すことができる、ということであり、そしてこのことが一人称小説と三人称小説の決定的な違いを生んでいるように思う。








*1:それがコミュニケーションで確認されようが小説の語りで客観的に書かれようが同じこと。

*2:その先には、〈私〉という語でもなお指し示せないものをめぐっての永遠の一進一退がある。






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