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 ルーマン “エコロジーのコミュニケーション”



“Ökologische Kommunikation”
 1986
 Niklas Luhmann





[メモ]
・システムとしての社会は、その環境についてどのようにコミュニケーションするのか。
 ・システムの閉鎖性:作動における閉鎖性。システムは環境とまったく無関係に独立しているわけではない。
 ・システムと環境の区別がシステム内へ再導入 re-entry される。(「システム合理性」)
・「決定」 「根拠付け」




[ノート]

用語集
p265 エコロジー
 本書では、システム形成のどのレベルであれ、システムと環境との分化がシステムの環境にどのような帰結をもたらすのかということを探求する学術的研究の総体をエコロジーと呼んでいる。この概念は何ら特別なシステム(「エコ・システム」)を前提していない。
p267  共鳴
 共鳴という概念で表現しようとしているのは、システムはそれ自身の構造にしたがってのみ環境内の出来事に反応できるということである。


2章 原因と責任?
p25 これが意味するのは、何を原因と見なし、誰に責任があると見なすのか、その決定を人は避けられないということである。
p26 何かに原因を帰すること、誰かに責任を負わせることは、それ自体がさまざまな帰結をともなう
p27 すなわち、こうした「悲劇的な」決定は、それが決定であったということがあらわにならないようにするために、あるいは少なくとも特定の観点では決定と見なされないようにするために、違った決定もありえたということ (コンティンゲンツ) をうやむやにしなければならないということである。
p27 こうして区別は、もともと恣意的なものでありながら、恣意的ではないものとして通用するのである。

3章 複合性と進化
p33 システムはその環境によって維持されるとともに攪乱されるのだが、決して適応を強制されるわけでもなければ、最善の適応を果たした場合のみ再生産が可能となるわけでもない。そして、最善でない場合もありうるというのもまた進化の結果なのであり、同時にさらなる進化が生じるための前提でもある。
p34 オートポイエティックなシステムがつねに第一義的に目指すのは、オートポイエーシスの継続であり、環境のことは二の次、三の次である。その際、次の一歩の方が将来の考慮よりも重要と見なされるのが普通である。なぜなら、オートポイエーシスが継続されなければ、将来に到達することはないからである。進化は長期的に見れば「エコロジカルな均衡」が達成されるように作用する。しかしこのことが意味するのは、自らをエコロジカルな危機に陥れる傾向のあるシステムは淘汰されるということ以外の何ものでもない。

5章 観察の観察
p48 したがって、環境はシステムにとって、自己の作動にとっての内的前提であり、システムが自己の作動を秩序づけるための図式として自己言及他者言及(あるいは「内的」と「外的」)の区別を用いる限りでのみ、環境はシステム内で構成されるのである。
p49 環境とはシステム内で用いられるすべての他者言及の相関項であり、現象的には地平として与えられている。ということは、環境は、必要とあればいかなる作動によっても拡張されうるということである。地平は、人がそれに近づこうとすれば、後退する。だがこれはシステム自身の作動に応じてのみ起こることである。地平は決して突破されることもなければ踏み越えられることもない。それは境界ではないのである。
p50 それに対して、他のシステムを観察するシステムには別の可能性がある(〜)。〜この観察は、観察されるシステムがそれ自身の作動様式によって自らに課することになる制約もまた観察することができるのである。他のシステムを観察するシステムは、観察されるシステムの環境が、当然境界を通してではなく、制約を通して構成されているということを認識できる。それは、観察されるシステムの地平が何を排除しているかということが認識できるような仕方で、その地平を観察することができる。
p53 つまり、それによって自己言及的システムの観察者は、自分自身のパラドクスを発見することになる。すなわち観察の恣意性と不可能性というパラドクスである。観察者がこのような困った事態を脱することができるのは、自然な制約と人工的な制約という区別を、観察している対象に適用することによってである。そのとき彼は、観察中のシステムが、それが見ることができないものを見ることができない、ということを見ることができる。つまり、システムそのものの内部では必然的で代替不能であるものが、観察者にとっては別様でもありうる (コンティンゲント) ものとして現象するのである。

6章 社会的作動としてのコミュニケーション
p59 社会を上記のように理解した場合、問題はつぎのようになる。すなわち、意味的コミュニケーションからなり、作動において閉じたシステムである社会は、その環境についてどのようにコミュニケーションするのか、である。
p60 エコロジカルな危機という概念は慎重に(わたしたちが、何が問題なのかを正確に知らない限りは)きわめて広く理解していただきたい。すなわち、環境に関するコミュニケーションで、かつコミュニケーション・システムたる社会の構造に変化を引き起こそうとするコミュニケーションのすべてを意味するものとする。はっきりと認識してほしいのだが、問題なのは徹頭徹尾社会内的な現象だということである。
p60 しかし、それらについてコミュニケーションがなされないならば、たんなる物理学的、化学的、あるいは生物学的事実にすぎず、社会的共鳴をまったく生み出さないのである。
p60 社会はコミュニケーションによってのみ観察するのである。意味的コミュニケーション以外に行えることはないのであり、そのコミュニケーションを規制するのもやはりコミュニケーションによってである。それゆえ、社会が危機に瀕するとすれば、ただ自らそうすることしかありえないのである
p61 この重要な出発点をもう一度、別の言い方で確認すれば、社会システムの環境は社会とコミュニケーションする可能性をもたない、と言うことができよう。コミュニケーションは徹頭徹尾、社会的な作動である。社会に固有なこの作動様式の次元では、インプットもアウトプットもない。環境はただコミュニケーションに刺激を与えたり障害を引き起こしたりすることによってのみ注意を引くのであり、その場合もコミュニケーションが自分自身に反応しなければならないのである

16章 機能的分化
p206
その帰結は、それまで自然と見なされていた事柄の多くが、決定されたこととして描かれるようになり、根拠づけを求められるようになることである。

17章 制限と増幅──過小な共鳴、過剰な共鳴
p214 外的境界によって、社会はその固有のオートポイエーシスを、つまりコミュニケーションを、非コミュニケーション的な事態の高度な複合性から遮断する。〜 社会は、その環境コミュニケーションすることはできず、その情報処理能力に応じて環境についてコミュニケーションすることができるだけである。

20章 エコロジーのコミュニケーションの合理性について
p244 本書で取り組んできたのは、社会が環境問題にどのように反応するかを明らかにすることであって、社会が環境との関係の改善を望むならば、どのように反応すべきか、あるいは反応しなければならないか、ではない。
p254 以上のような考察によっても、システム合理性という概念が損なわれたわけではない。この概念が表すのは、システムと環境の差異をシステム内に再導入する可能性である。つまり、システムの情報処理をシステムと環境の差異の統一によって統制する可能性である。システムと環境の差異の統一とは世界のことである。









エコロジーのコミュニケーション―現代社会はエコロジーの危機に対応できるか?

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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell