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 伊藤計劃 “ハーモニー”

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)






0.
 おもしろかった。
 2009年も始まったばかりなのに、既にしてもう今年読んだSFとして最高点を上げたいぐらい..... さすがに性急すぎるか? もう少し落ち着いて考えてもいいのだけど、でもこの先これ以上の作品が現れたとしたら、それはそれで単に喜ばしい事態なわけだし...。



1.
 この小説の魅力はふたつ。
 まずは、あたらしい社会形態を描写していること。
 SFはいつだって、時代ごとにそれぞれ刺激的で斬新な未来世界のイメージを描いてきたものだけど、この小説もまたあらたな未来像を示している。


 それにしてもSFは、なぜ「未来」を好んで語るのだろうか?
 SFというものが、単に自然科学の考え方に準拠した小説、もしくはテクノロジーを大きくフィーチャーした小説であるというだけならば、舞台は必ずしも未来でなくたっていいはず。現代を舞台にして研究者のリアルな日常描写と学術論議が延々と続く話とか、60年代の月面探査プロジェクトをフィクショナルになぞり直した話とかだっていい*1。でも多くのSFは、その時代設定を未来と定めている。
 未来を語りたいという欲望には、どのような理由があるのか。今の技術水準や社会形態に満足せず、それが今後より進展し、極端な姿になるとどうなるのかを見たいということなのか。それとも、何か技術的もしくは社会工学的なあたらしいアイデアを思いついたので、たとえ今はその実現性が不足していたとしても、それが具体的になる世界を提示してみせたいということなのか。サイバーパンク以前のSFであれば、そのようにバラ色の未来をプレゼンテーションすることに喜びを見出していたかもしれない。でもSF小説で示される未来像には、ユートピア的な世界だけでなく、ディストピア的な世界も多かったりする。悲観的な未来像をあえて描写してみせるのは、なぜ?
 教科書的に言うなら、現在の社会が持つ問題点を警告しているということになるのだろうけど、そうではなくディストピアのイメージ自体に魅力があるということも考えられる。20世紀後半にナウシカAKIRAのような終末世界像が好まれたのは、もはや社会の大変化を期待できなくなった状況下で、日常から失われたある種の強度を虚構世界に求めたためだ──というようなことを宮台真司がかつて言っていたと思うのだけど、そういう意味ではディストピアユートピアは表裏一体なのかもしれない。こうなったらやだよねーと言いつつも、一方でどこかそのような強度のある状況の到来を望んでいる節がある。もちろん、核戦争で荒廃した地球、なんて実際来たら大変だろうし、そもそも自分がその中を生き残る確証なんてないのだけど、それでもフィクションとして楽しむ分には、ユートピア的な未来もディストピア的な未来も、娯楽として消費されるという点では等価なものなのかもしれない。


 さて、それではこの小説“ハーモニー”での未来世界は、ディストピアなのだろうか、それともユートピアなのだろうか?
 これがなかなか難しい。それが簡単に答えられないところが、この小説の未来像の重要なところだ。
 従来のSFで未来における危機や破滅が描かれる場合、そこには、テクノロジーの進展が意図せざる結果として負の側面を生む、というような筋書きがあった。つまり、誰かが良かれと思ってつくり出した新技術なり社会制度なりが、当初の良き目的とは別の破滅的な効果を派生するという構図だ。それは計算違いの副産物であったり、あるいは偶然生まれたものであったりさまざまだけど、いずれにしても世界が危機に瀕するのは、人類のなかで利害関係の調整がうまくいかないとか少数派が意図的に利用しようとしたりする結果であって、少なくともそうした効果自体はちゃんと「危険」として共通に認識されている。

 ところが。
 この小説で現在の資本主義社会の次に訪れるものとして描かれている〈生命至上主義社会〉では、世界が危機に直面しているのかどうかが自明ではない。(この小説で訪れる実際の「危機」は、この世界の仕組みを危険だと見なしたある個人の策謀によって引き起こされるのだが、しかしそれは多数の人間に共有されている認識ではない。)
 “ハーモニー”の世界では、過去にあった巨大な災厄の時代を経て、その過ちを二度と繰り返さないという理由と人間の身体そのものが稀少になったという価値観のもとに、人間は健康でなければならないという至上のテーゼを抱えた社会が構築されている。そこでは、個人の身体を分子レベルで維持·管理するテクノロジーと、生活全般を健康に即したものに強制させる社会制度とが協働し、病気や怪我、争いや殺人のない社会が実現している。人間はもはや、外部から来るものであれ内部から来るものであれ身体を脅かすいかなるものをも恐れる必要はなくなった。
 このような世界は、果たしてユートピアと呼べるのだろうか? それともディストピアと呼ばなくてはならないのだろうか?

 それは区別しがたい。なぜならある人間にとってはそのような世界は耐え難いものであり回避すべきものと映るかもしれないけれど、別の人間にとっては──もしかすると大多数の人間にとっては──それは望ましい世界と捉えられるからだ。たとえば「監視社会化」とか「セキュリティ」という現代的なテーマを語るとき、過剰にセキュアな社会がディストピアなのかユートピアなのか一概には言えないことと同じように。
 CCTVがあらゆる街角で人々を24時間監視し続ける光景は、自由やプライバシーを侵害するものであると同時に、他ならぬわれわれ自身が望んだものでもある。空港の警備や手続きがわずらわしいものになることも、テロ対策という総論においては賛同せざるを得ないという人々が大半なのではないだろうか。おそらくこのような流れは今後さまざまなかたちで加速していくと思うけれども、もしこの先、個人の自由に大幅な制限が加わることを代償として恒久的な安全が確保される時代が来たとして、それはある側面では束縛と圧迫感に満ちたディストピアなのかもしれないし、別の見方では、人類がかつて経験したことのない平和が実現したユートピアなのかもしれない。それはもう、わかりやすく誰もが脅威と認める危険物が流出してしまったような世界とはまったく違って、そこが望ましい世界なのか望ましくない世界なのか判断する際に誰もが一瞬躊躇せざるを得ないような、弁別不可能な世界なのだろう。
 そういう意味では、この小説が示す未来像は、あたらしい.....というか、アクチュアルな社会認識にとても沿ったものだと思う。




2.
 つぎに。
 もうひとつの魅力は、HTMLのような記法でときどき挿入される独特の記述言語。


 この小説の語り口に関して言うならば、さまざまな引用はともかくとしてまずは黒丸尚へのオマージュを全開で感じさせる文体にうれしくなる。他にも、メインキャラクターの会話や独白にあふれるシニカルなトーンは好みだし、濫用と眩惑の程良い加減で作品世界を鮮明に伝えてくれる固有名詞群も印象的だ。
 でも小説全体を特徴付けるのはそういう文章の面よりも、断片的に現れて読者の違和感を刻み続ける不思議な記法の方だ。黒丸尚の文体はサイバーパンクというジャンルのキャラクターを形成するのにとても重要な意義を持っていたと思うけれど、この奇妙な記法も、小説世界の性格付けになくてはならないし、もっと言うならば──あたらしいSFスタイルの可能性も予感させる。もっとも、そう断言できるのは全部読み終わってから、この小説の枢要の仕掛けを知ってからになるのだが。



(以下、きわめて重大なネタバレを含む)




 〈生命主義社会〉を片方の軸として、もう片方の軸に〈意識〉をめぐる諸問題を据えてこの小説は展開される。
 ふたつの軸は最終的には近接してくるけれど、まずは中盤、〈次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ〉なる風変わりな組織の登場から、意識というふたつめのテーマが浮上してくる。
 小説のタイトルであるところの“ハーモニー”とは、人間の欲望のバランスが完全な調和を取った状態を指し、このワーキンググループが目指した究極的な目標とされる。
 ところが彼らの研究は、人間の意識とははその進化においての副産物のようなものにすぎず、生存競争上かならずしも必要なものではなく、ましてや進化の到達地点でもないという洞察を導いてしまう。
 彼らは実際に〈意識状態〉を持たずに生存する人間集団を発見し、その後実験を繰り返した結果、この特異な集団と同様に意識をなくしそれでもなお支障なく生きていける状態にさせる人為的な手段を生み出すに至る。



 {意識がないけれども、意識がある人間とまったく同じように生活している人間}というのは、非常に困難な哲学的命題を伴うものだと思うのだが、しかしこの小説ではそこがとてもあっさりと通過されている。
 ここでの「意識がない」というのは、睡眠状態や気絶状態とは違って、意識がある状態とまったく変わらず普通に会話することもできたりという状態なのだが、小説内では、実験によってある人間をこのような状態にするという局面が語られている。「意識がない」状態というのをどうやって確かめるの?と思ったら、実験が終わったあとに、実験中のことを思い出そうとしてもぜんぜん思い出せず、でも実験中は他の人と普通に会話もしていた、ということからその状態は「意識がない」状態なのだとされているのだが......。しかしそれは端的に言って、実験中の記憶が失われたような場合の状態と区別がつかないことだよね? そうではないのだとしたら──この小説の言わんとしていることは、「そうではない」ということなのだろうけれど、しかしそれは実験によって外部から確かめることは原理的に不可能なことのはずだ。
 意識というのは、そんな簡単にあるとかないとか言えるようなものなんかじゃない!と、声を大にして言いたいのだけど......でもそもそもこの私の問いはいったい誰に向けてのものなのか。〈私〉がそのように問いかけることにどのような意味があるのだろう?


 この小説での〈意識〉をめぐっての設定のあれこれは、際どくアクロバティックとも思えるのだけど、しかし実はそれは既に折り込み済みで、ラストにたどり着くとすべての疑問は氷解する。この本が「哲学書」ではなくあくまでも「SF」であるということが(あるいは「文学」であることが)、身に染みてわかるだろう。読者を残酷に突き放すかのような衝撃を伴って。ハッピーエンドでないことはたしかだとは思うけれど、かといってバッドエンドとも言いがたいのだが。
 しかし作品世界の人たちにとってはこれこそ真にディストピア到来な結末で、といってもそれを感知する視点など存在せず、それを知ることができるのはメタ視点のみ、つまり読者のみなのだけれども、読者にしてみれば小説世界の人間の意識の有無など現実世界の意識問題以上にとりとめがなく、むしろこのエンディングであることによってテクストとしてのかたちがきれいに完成していること、その鮮やかさに感嘆する。









*1:スチームパンクオルタナティヴ世界になるから少し違う?






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell