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 古川日出男 “聖家族”

聖家族






0.
 古川日出男はこの書の短いあとがきのなかでこう記している。

この『聖家族』は流亡のメガノベルだ。



 メガノベル。もちろんそう。最終ページの右下には、738という数字が刻まれている。本の厚みはハードカバーの表紙分を除いても、約40mmに達する。いずれ文庫化されれば分冊されてしまうのだろうけれど、しかし現時点ではこの書との邂逅はまずもってその物量、見た目も重さも辞書以外の何物でもないようなそのボリュームによって印象付けられる。
 辞書であれば、それはそのときどきの必要に応じてめくるだけのもので、1ページ目から読み進めていくことなどはないわけだし、学術書・専門書であっても、必要個所だけ目を通せば事足りるということもあるだろう。
 だけどこの本は小説であって、それは必然的に、最初のページから順を追って読んでいく以外の道がないことを意味する。そのとき、一冊でのこの存在感は大きな心理的関門でもあるけれど、同時に、読み手をわくわくさせるような作用も確実に持っている。


 小説というものは、もしかすると今後、webやらpdfやらで読むことが主流になっていくこともありえなくはないかもしれない。しかしこのような大著を前にすると、本という形式で書かれたものには、読むことそれ自体以外に独特の体験が伴われることがよくわかる。その最大の特徴は、「全体」が常に目の前にあること。テクストの全体量が実体として把握される。自分がどこまで読んだのか、あとどれだけ残っているのか、という読みの推移もまたひとめでわかる。
 テクスト全体と自分との関係が、ウィンドウの右側にあるスクロールバーだけで示されるようになってしまうとしたら、物足りない...。もっともそのような読書体験が一般的なものになるのであれば、それはそれで何か別の身体体験を生んでいくのかもしれない*1。だけどこの「本を読む」という行為、それはいつまでも残ってほしいものだと思う。

 この小説内で、次のように語られているところがある。

 不自由なのは目だけですよ。
 あなたが?
 司書の、私が。他のことは余さず感じられます。ほら。
 老人は文書を示す。手にしている一冊を。親指で、ぱらぱらぱら、ぱらららららららら・・・・・・と捲る。
 ほら、音がします。紙の音ですね。空気が揺れます。むしろ空気を揺らします。溜め込まれた歳月の匂いが漂います。指が感じます。ここには余りに自由な耳が、肌が、鼻が。もちろん指が。指の腹が。これらの働きは決して侮れないものですよ。

 決して侮れない。
 手で触って、ページを一枚一枚めくって読み進めていくというこの些細な身体行為は、テクスト内容そのものとは別個に無意識なものとして記憶に刻まれていくものかもしれないな、ということを思った。






1.
 まずこの小説の概略について説明した方がいいのだろうか。でもそれは簡単ではない。最初のパートについてだけならあらすじのようなものをまとめることはすぐできるかもしれないけれども、それだけには全然とどまらないからだ。登場人物や出来事の焦点は膨大な時間幅をもってさまよい続ける。プロットの軸らしきものはないこともないのだが、その本筋はなかなか語られず、何かの関連性を感じさせつつもすぐにはそのつながりがわからないようなエピソードが入り乱れる。
 巨大な小説なので、テーマのようなものはいろいろ抽出可能だ。
 すぐ思いつくだけでも、「歴史」だったり「家族」だったり、「語ること」「記録すること」などの語句が出てくる。あるいは「地域」「動物」などの観点から読み解いていくこともできるだろう。謎や伏線も潤沢で、博学的事項も多岐に渡って披露されている。この小説を本気で研究しようと思うならそれこそいくらでも掘り進めていくことができるはずだ。
 だけど、読み終えたばかりの新鮮な状態の今、ひとつことばを挙げて自分なりにこの書のテーマをまとめておくとするならば、さしあたって〈オルタナティヴ〉という語を用いておきたい。
 つまり「異類」であり、「異界」であり、また「影の歴史」であり..... そういった諸々の「こちら側に属さないもの」についての小説。
 たとえば、神隠しに逢って異類のもとで修験する者、あるいは異界にさまよい込むがまたこちら側に戻ってきた者たちなど、この小説内のエピソードは、何らかのかたちでどこかしら「別様なるもの」に触れている。


 異界とは何か?
 具体的なキーワードを拾い出してみよう。
・地図を捨てなければ辿り着けない場所。
・違う時間が流れる場所。「流れてはいるが違う。停まってはいないが違う。」
・その場所には緯度よこいと経度たていとがない。整理のためには不可欠であろう一切の数値がない。
・異類の棲まう次元。


 それでは異類とは?
・天狗。
・渡来人。
・修験者。
・まれびと。
・「記憶がないけれど、お前たちは夢を見られるし。」
・「あたしはお前たちを異類だと思ったけれど、お前たちからすれば、もしかしたら異類なのはあたしたち?(うん)そうなの?(うん)記憶があるほうが異類で(キオク ガアルホウ)じゃあお前たちは何を見るの?(アルホウガ イルイ デ)違うね、お前は何を見るの?(うん)お前の夢の材料はなに?(うん)記憶は・・・・・・未来に?」
・「鳥居から続いているのは参道で、子宮から続いているのは産道で。」

 どこまでもとりとめなく続くように見えるこの小説の語りのなかから意味の連関を抽出するのはなかなか難しいのだけど、以上のようにキーワードらしきもののつながりを見ていくと、何かがわかってくるような気がしないこともない?



2.
 思うに、この書における異界──あるいは〈彼岸〉というものの意義は、「往還できること」にこそある。
 つまりいわゆる「あの世」なる語で一般にまず思い浮かべるだろう「死後の世界」のようなものとは少し違っていて、行ったきり戻れない世界ではなく、行ったり戻ったりできることに意味がある。
 正史という記録され正統化された世界があるだけではなく、その背後には「語られない世界」「別様な可能性の世界」というものがあって、だけど両界はまったく断絶した状態にあるのではなくときどき境界を越えて往き来する者があり、正史というものは実はそのような者たちによってつくられていくものでもある、と読みとれるように思う。

 この書では、「山に棲まう異類たち」というものは、単に俗世に馴染めなかったり闘争に敗れて落ち延びた者たち、という描かれ方はしていない。彼らは人ではなく、あくまで「異類」なのだとされている。とはいえ人と異類の差異は生物学的なものではなく、人から異類へ、異類から人へと変わることも、見方によってはごく容易なこととしておこなわれる。異類たちは概して超常的な能力を鍛錬しているのだが、彼らを定義する事項としてはむしろ「異界に属している者たち」ということの方が重要かもしれない。
 というのは、生まれてくる胎児もまた異類に区分され得ることが示唆されてもいるからだ。
 長大なこの小説の末尾近くで、〈記憶をまだ持たない胎児の見る夢は「未来」を材料としている〉という印象深い一節があって、雑駁に歴史を語りつづけてきたこの小説の視線が、過去だけでなく未来にも延びていることがわかる。
 過去に向かう目線が語ってきたもの、それが異界を、そして異類を経由してまだ語られない未来にもつながること.... それは時間軸を円環のようにつなげて閉じるかのようなきれいな構図を感じさせる。


 僕の現時点での解釈では、ここでの「未来」とは「可能性」のことだと考えたい。
 未来とはいまだ確定していない可能性の宝庫のようなものであって、それが「現在」となって正史の中に確定していくとき、そこに取り込まれることのなかった残りが、語られぬ異界として積まれていく。それは忘れ去られるかもしれないし、こちら側の世界からはなかなか見えないものではあるのだけど、でも完全に隔絶された世界でもなく、境界を越えるまれびとたちが「こちら側」に与える変化、それもまた正史には語られることがないのだが、看過できない確実な変化をもたらすのだと。




[参考]
公式ページ:http://www.shueisha.co.jp/furukawa/rensai/index.html
 人物相関図とか、各章の概略など。
藤谷治による感想:http://www.ficciones.jp/nk2008-3.html
 12月16日付のところ。「正史」に対する「稗史」という位置付けは、わかりやすいまとめだと思う。それと、「ポリフォニー小説」という指摘。







*1:だって、たとえばweb上でblogなどさまざまな「書きもの」系の文章を読むとき、もう既に本を読むのとは別のあたらしい体験が為されているように思うから。






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―Angela Mitchell