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 “スラムドッグ$ミリオネア”





“Slumdog Millionaire”
 Director : Danny Boyle
 UK, 2008




 2008年度のアカデミー賞で、ハリウッド外の作品にもかかわらず8部門受賞を果たしたことで話題になった映画。
 内容は、ムンバイのスラムで生まれたジャマールが、波乱に満ちた少年時代を生き延びた後に、インド版の「クイズ$ミリオネア」に挑戦するというもの。
 冒頭で画面に浮かび上がるクイズ:

ジャマール・マリクは2000万ルピーの賞金まであと一歩。どうやってそんなことができたのか?
Jamal Malik is one question away from winning 20 million rupees. How did he do it?
(A) イカサマをした。He cheated.
(B) 幸運だった。He's lucky.
(C) 天才だった。He's a genius.
(D) 運命だった。It is written.



 そして画面はジャマールの現在と回想とを行き交い、クイズ番組に至るまでの道筋を再現し始める。現在においては警察官と、回想においてはクイズ司会者と、それぞれ別種の緊張感が張り詰めたシーンを激しく交互しながら、その後、視点は一気にはるか過去に遡って、極彩色のスラム街での幼少期からジャマールの物語をあざやかにスタートさせる。
 スラム街での子供たちの活力ある逃走シークェンスは、その舞台といい疾走感あるカメラワークといい、「シティ・オブ・ゴッド」を思わずにはいられない。スピード感に満ちた映像・激しいカット割り、そして一方では冗長な情感描写を極力省き、あふれる色彩・イメージこそがむしろ雄弁にテーマを語る .....というのは、僕が好きな映画のひとつのタイプなのだけれど、この映画は完璧にそれに乗っている。



(上の問題の答を既に知っている人以外は、この先を読まない方がいいと思う。)



 終わってみると、最初想像してたプロットとはけっこう違っていた。
 観る前は、スラム出身で充分な教育も受けていないような者がなんでクイズ番組で正解し続けて最終問題までたどり着けたのか──何か不正やトリックで正解したのか? ...という知略と謎解きに焦点を当てた話なのかと思っていたのだけれど。
 でもこの答自体はとてもシンプルだった。策謀などはぜんぜんなくて、クイズに正解し続けられたのは、単にジャマールが数奇な人生を送ったための雑多で広範な知識に通じていたから。その体験が強烈であったために、それに伴って遭遇した些細な事物すべてもまた深く記憶に刻まれていたというわけだ。──うん、だって「100ドル札に描かれているのは誰か」ってことを、あの局面でああいう風に聞かされたら、それはもう一生忘れずにはいられないだろう...。観てるこっちの記憶にも残ってしまうぐらい。よくある記憶術で、言葉を単独で覚えようとするよりも、関連する事物といっしょに何らかの文脈のなかで覚えたものの方が思い出しやすい、というものがあるけれど、まさに人生をまるごと使ってこれを実践し続けてきたようなもの。
 とはいえ、もしインド紙幣で同じような質問をされていたら答えることができなかった、なんてことを彼は認めているのだから、それは単なる偶然・幸運なのかもしれない。最後に示される答によれば、それは運命であるがゆえに、なのだが。

 この映画の主人公は明らかにジャマールではあるのだけれど、ジャマールの兄サリームもまた、いってみれば影の主人公のようなものとして重要な役割を担っている。ふたりは強い対比をもって描かれている。性格、生きざま、そして運命。その対比は明確だし古典的でもあるけれど、ジャマールが正でありサリームが負であるとして片付けてしまうのではなく、このふたりが適度に合わさったようなものが本当の主人公といえるのかもしれない、などとも思う。ふたりの運命は分かちがたく結びついているからだ。


 ひとつ気になっているのは、この映画のもっとも重要なモチーフと思われる “It is written” というフレーズのこと。
 映画内で「それは運命だった」と日本語訳されている通りに、「既に定められている」というような意味で捉えてもよいのだろうけれど、しかし現在形として書かれているということは、何かの慣用句なのか? もしここに省略された主語を補うならば、それは「神によって」というものなのだろうか。
 映画の最後にジャマールが口にする言葉は、ラティカのセリフに答えるかたちでの “It is destiny.” というもので、その直後、暗転した画面に冒頭の問題の答として “D: It is written. ” というフレーズが再来し、冒頭とラストをきれいにつなぐこの演出に感銘を受けたのだけれど、しかしよく考えてみるとそこには、なかなか一筋縄ではいかない疑問が残らなくもない。“It is written” であるにしても “It is destiny” であるにしても、この映画で語られたストーリーが既に定められていたことであるというのは、どういうことなのだろう? スラムに生まれ育ったジャマールが、ひとりの女の子を一途に思い続けたり、堕落せずに栄光を掴むということが、それ以前に決まっていた動かしがたい運命なのだというのは? そしてジャマールが愛と栄光を手に入れた一方でサリームが悲劇的な最期を遂げることもまた運命として受け入れなければならないものなのだろうか?
 ──たぶんそのように、生じた出来事を〈運命〉という言葉で整序し意味付けるのがまさに宗教の機能なのだろうと思ったりもするのだけれど、いまに至るまで宗教的知識にきちんと触れたことがほぼゼロであるところの自分としては、もっと字義通りに捉えて考えてみたりもする。つまり「それは書かれたものである」というフレーズは、これがフィクションにすぎない、ということをわざわざ言明しているのだと。ジャマールのハッピーエンドにしてもサリームの悲劇的な最期にしても、それが物語としての約束ごとでありそのような展開こそが物語に求められているものだからである....と、そんなことがこのフレーズで暗示されているのだとしたら、どうしよう?(.....何かとっても身も蓋もないことを言っているような気もするが、こんなことを考えてしまうのは、ひとつにはいま読んでいるやたらメタ・フィクショナルな小説が原因だったりするかもしれない。)
 原作 “Q & A” (ぼくと1ルピーの神様) では、主人公と対照を成すかたちでの兄というキャラクターは登場していないらしいのだが、だとするとこの映画におけるサリームとは、ジャマールに映画の主人公として申し分ないハッピーエンドを迎えさせるためのコントラストとしてわざわざ対置された存在である、という言い方もできなくはないだろう。そして “It is destiny. / It is written.” というフレーズはそのように、影の主人公であるところのサリームのためにもあると解釈したっていいはずだ*1。ここでの「運命」ということと「書かれている」ということは深くつながっていて、サリームの行為やその死は、宿業とか因果応報といったものによってではなくむしろ映画として・物語として要請される筋書きによって第一義的に規定されている。宗教的規範とは別種の、言ってみれば物語的規範として*2
 こうしたことはすべて、映画が自ら表明するところの “It is written.” というたったひとつのフレーズによって喚起される。
 “It is destiny” とだけ言われているのであればラブ・ストーリーの王道と受け止めて流してしまうところなのに、“It is written” と語られていることでいろいろ悩まされてしまうのだ。






official : http://slumdog.gyao.jp/
IMDb: http://www.imdb.com/title/tt1010048/



*1:たぶん今後この映画をもう一度観ることが必ずあるだろうけれど、そのとき僕はサリームに感情移入してその視点で観ることになるだろうと思っている。

*2:そのような規範は、語られる者にではなく語る者に対して及ぶものかもしれないけれど、しかし現代社会における自己というものが「再帰的自己」だったり「パフォーマティヴな自己」だったりすることを考えるならば、語る者と語られる者は必ずしも明確に分離されてはいないとも思うし...。






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell