“A PLAY OF SELVES”
1976/2007
Cindy Sherman
ISBN:3775719423
Cindy Sherman: A Play of Selves
- 作者: Cindy Sherman
- 出版社/メーカー: Hatje Cantz Verlag Gmbh & Co Kg
- 発売日: 2007/02/01
- メディア: ハードカバー
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文字や言葉、台詞といったものがまったくなくても成立する物語。
1976年、まだ大学在籍中だった頃の若き Cindy Sherman がつくった作品で、2007年に書籍化して出版された。
この作品/書物では、Cindy Sherman がひとりで16人の異なる登場人物に扮し、4幕-72シーンからなる劇を演じている。台詞などは書かれていないし、舞台背景すらもなくて、ポーズを取るキャラクターたちの写真が各シーンごとに白地の上にただ並べられている。言葉が一切ないかわりに、表情やジェスチャーは大袈裟なほどはっきりしていて、それらが物語の内容を表現している。劇の始まりはキャラクターたちが集まって議論しているらしきシーンで、それからさまざまなキャラクターが入れ替わり登場し、悲嘆に暮れたり、言い争ったり、慰めたり、あきらかに何かが繰り広げられていく。どのような事態が進行しているかの手掛かりは彼らの顔つきと体勢にしかなくて、明確には何もわからない。巻末には作者によるスクリプト·ノートが載せられているけれど、本人によればそれは鑑賞者にとって重要なものではないらしく、むしろスクリプトを見ないで作品を鑑賞した方がいいと考えているようだ*1。
すべてがひとりで演じられているにもかかわらず衣装やメイクが明確に使い分けられているためそれらの区別は容易で、“The Madness”というキャラクターはたしかに狂気を感じさせる風貌をしているし、“The Male Lover”も“The Vanity”も、そうしたキャラクター名を告げられなくても役割がなんとなく掴めたりはする。だからたとえばある派手な人物がどのように推移していくか、あるいは男性キャラクターがどのように表情を変化させているのか、などを追うことで、何かしらの意味合いを感じ取ることはできなくはない。
そのように言葉や背景があきらかなものとして与えられていない状態から鑑賞者がどのような物語を見出すか、ということが作品の主眼ではあるらしいのだけど、せっかくスクリプト·ノートが付いているのだから作者が本当はどういう物語を用意していたのか確かめようと思ってノートを読んでみると、実際のところ物語としてそれほど詳細なことが書かれているわけではなかったりもする。書かれているのはキャラクター名の一覧と、各シーンごとのト書きらしきもので、それらは物語を規定するものというより、撮影・演技メモのような、つまり作者が制作にあたって必要とする単なる手順を示すものであって、このスクリプトそれ自体が物語であるというわけではないのだ。
もっとも、キャラクターの名前とその位置付けを示すメモは、解釈をわかりやすくさせてくれるものではある。それぞれのキャラクターは心理学的なニュアンスを込めて定義されていて、主人公の副人格や象徴的な対人関係から登場人物たちが構成されていることが把握できる。それらをもとに構造分析的なことをおこなうならば、ここでの〈物語〉を明確化することはたぶんできるとは思うけれど、そうして抽出されるであろうものは(本人が若干恥ずかしがって回顧しているように)今となっては少し紋切り型すぎるものとして映るかもしれない。
僕がより興味深く感じたのは、スクリプト·ノートの最後にある全体一覧表のようなページの方だ。
そこでは、簡略化された人物記号で72シーンのすべてが表されていて、全体を一度に把握することができる。人物記号といっても5・6mmほどの単なる細長い図形以上のなにものでもなく、いくつかの部分ではかろうじて腕らしきものが描かれていたりキャラクターのイニシャルが振ってあるけれど、一見したところ微生物がシャーレの上に並べられているようにしか見えない。しかしこの図こそが“A PLAY OF SELVES”というこの物語劇を最小限に示す要約であることは確かだ。
ジェラール・ジュネットは“失われた時を求めて”という大長編小説を、《マルセルは作家になる》という一文によって要約することが可能だと言っているのだが、Cindy Sherman によるこの図を見て、小説や物語は文章ではなく図表のようなもので要約表現することもできるのかもしれないと思った。
ところで、僕がこの書物/作品を見て考えたことはもうひとつある。それは、もし台詞もなく舞台背景もなくただ登場人物のポーズだけでも物語が成立するものならば、逆に、たとえば舞台背景だけしかなくても物語が成立するということはありえるだろうか、ということだ。もっといえば、ただそこに空間があるだけで物語をつくるということは可能なのだろうか?
小説・映画・漫画・演劇…といったような一般に物語を供給しているメディアは、登場キャラクターだとか舞台背景・情景描写、台詞、効果音、などといったさまざまな要素を身にまとわせて成っているけれども、そうした要素を少しずつ削ぎ落としていったとき、どの時点まで〈物語〉なるものは残るのだろうか。“A PLAY OF SELVES”では、舞台や台詞をなくしてもなおそこから物語らしきものを感じ取ることができる。では、舞台だけを残して登場人物をすべて取り除いたときは? たぶん登場人物がまったく出てこないけどたださまざまな舞台背景の連続だけが載っているような本をつくれば、この本と同じようにそこから物語内容を想像することができるようには思うのだが...。
僕が大好きなフレーズのひとつに『物を思うは むしろこの街』というものがあって*2、それを僕は、空間と物語を結びつけるキーワードだと秘かに思い続けているのだけど、そのような境地にたどりつくためのヒントがここにあるような気がしている。
以下、序文および登場人物一覧の私訳
Cindy Sherman による序文
これは、わたしが意識して自伝的につくった唯一の作品だ。過去を振り返るというのは恥ずかしいことで、この作品のようにとても個人的で未熟なものについてはとりわけそうだ。それは陳腐で、真面目で、わかりやすすぎるものだけれど、わたしの作品がどのように異なってきたか、どのように共通項を残してきたかということについて、気付かせてくれる。
わたしは、自分自身の紙人形でつくったアニメーション映像(Doll Clothes, 1975)で、切り張り画像というものを初めて使った。ひとたびキャラクターが切り取られるとそれらは互いに相関するものなのだということをわたしは知った。いまでは Photoshop のおかげでこうしたことは古くさいものになってしまったけれど……。自分自身をそのように複数のキャラクターに分割させることをどのように思いついたかははっきりしてなくて、あるひとつのシーンから始めてそのあとストーリーが浮かんできたのか、それともそれらすべてを一度に全体として考えついたのか、よく覚えていない。だけど、ひとつのプロジェクトがどれだけ秩序的で野心的なものでありえたかということには、驚嘆させられる。そのときのわたしが、このプロジェクトがどれだけ映画製作に似ているものなのかを意識していたかどうかは、わからない。
各キャラクターを演じる際、それに対応するシーンを連続して撮影できるように、わたしは撮影スケジュールを立てた。それから現像スケジュールを立てる必要もあった。前景・中景・背景などの区別や男女の性別はスケールの違いで表現されたので、それらの大きさを計算して、写真の引き延ばし機をあるサイズにセットしたら同じスケールのものを一気にプリントできるようにするためだ。そのあとは、莫大な量のカッティング作業がやってくる。このときは、とにかく自分の手作業にひたすらかかりきりになった。
ニューヨークに移ってからは、もうこれ以上写真を切る作業は一切したくなくなったので、物語を表現する別の方法を思いつこうと考えた。それが Untitled Film Stills の始まりとなった。
この作品が見られたのは、1976年、ニューヨークのバッファローにある Hallwalls というギャラリーでだけで、そのときわたしは大学で最後の学年を過ごしていた。
登場人物一覧
失意の女性 主人公。悲しみ、混乱している。(彼女が自分自身を省みるにあたって)
虚栄
狂気 (id?)
苦悶 (super ego?)
欲望 (libido?)
…主人公の副人格たち。
現実の主人公
主人公の本当の姿。制御者。他者が見る主人公
主人公が、そう認識されていたりそうあるべきものとして期待されている姿。理想の女性 ラクター。
理想の男性 自分のものにしたいと望まれているキャラクター。
…主観による想像のキャラクターたち。
軽薄な若い女 純真かつ未熟。実際の個人というより、主人公の想像の産物。
女の誘惑者/被誘惑者
男の誘惑者/被誘惑者
…これらもまた主観による想像。
男の恋人 ラクター。
まだ見ぬ実体。それにもかかわらず全員にとって有効性のあるキャ女の友人
男の友人 話し手。
…慰めるキャラクターたち。
語り手
see also:Cindy Sherman “The Complete Untitled Film Stills” http://d.hatena.ne.jp/LJU/20050328/p1
*1:Cindy Sherman talks about a Play of Selves, 1976.
*2:誰の言ったフレーズかはとくに書かない。