::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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 グレッグ・ベア “久遠”









1.
 あたらしく読んだものというわけではなくてむしろはるか昔から読んでいるものではあるけれど、一度まとめておきたくなったので書く。自分の嗜好を再確認するために。
 ぼくがSFのどういうところが好きなのかは、グレッグ・ベアの “久遠” にある次の一節にだいたい集約されている。



 しばらくは、もうなにも聞きたくなかった。もういちど腹這いになった。眼下には青緑色の浅い海が広がり、ところどころ木の切り株のように岩礁がつきだしている。こんな場所は見たこともなかった。
 これがロドス島に近い場所なのだろうか。だが、ジャルトにとって“近い”というのはまったく異なった概念なのかもしれない。なんといっても、相手は高速で〈道〉のなかを移動し、石鹸の泡に乗ってゲートを出入りするような者たちだ。
 さらに多数の岩礁が現れた。ひとつひとつが黄金色をしている。まるで岩の上から塗料を塗ったようだ。海には植物も船もいっさい見えない。雲におおわれた世界、岩礁の点在する荒涼とした海が広がるばかり……。
「空気のにおいをかげる?」
「かげない」そっけなく、テューポーン。
「なぜ?」
「もうきみの呼吸には適さないからだ。きみの世界の空気中には、目に見えないほど小さな生物と半生体機械の群れが飛びまわっている。ガイアをより高次の効率段階に押しあげるために」
「だれも外には住めないというの?」
 テューポーンはあわれむようにいった。「きみたちの種族には」



 ひとつの世界をまるごと喰らい尽くされてしまうということ。そして実は、それは単に《滅ぼされる》という事態を越えた水準で為されたものでもあり、はるかに遠大で透徹した計画に基づいておこなわれている。でも、ある人間個人の視点からしてみればそれもただ反抗不能の敗北・決定的な絶望としか映らない。
 ぼくがSFに求めるものは、コミュニケーションの複雑な干渉模様や心理の細やかな綾を描写することではなく、一個人を、その身丈から極端にオーバースケールした事態に対置させることだ。たとえば星空を仰いで、茫漠とした宇宙と自分自身を対照させるときのように。
 ──そしてこのとき、自分がいかに小さな存在なのかと思うか、それとも、無窮を認識するこの視座こそが無二のものだと思うのか、それは自由。
 (なお、上記の引用文にある「ガイア」は前世紀のエコロジカルなタームとは関係なく、プトレマイオス朝が存続した並行宇宙で天体としての地球を称するのに用いられている語。)


2.
 SF小説のなかでどれがもっともすばらしい作品なのか、という質問はなかなか簡単に答えられないものだとしても、単純に自分が今まで繰り返し読んだ回数がもっとも多いSF小説は、ということであるならば、ギブスンの “カウント・ゼロ” とこの “久遠” とがその双璧を成す。
 当然、内容は細部まで頭に入っているから、再読したところでもはや新しい発見を望むべくもないのだけど、それでも折に触れて読まさせられてしまうのは、このふたつが読書体験そのものに快楽を伴わせているような作品だからだと思う。つまり、繰り広げられる鮮烈な情景、あるいは台詞まわしの機微などといった、テクストを読み進める体験そのものが気持ち良すぎる。
 この二作品には、自分の好きなフレーズが大量に詰まっていて、だからこそ何度も読み返す。それは言葉遣いのレベルにとどまらず、そこから喚起されるイメージのレベルでも比類ないのだけど、しかしそれを生みだしているのはやはり言葉の配列の妙でもある。

 “久遠” からひとつ例を挙げておく。

全知全能の神などいはしない。これほどの重荷をにないたがる神などいるはずがない。いま彼が見ている無辺の世界は絶対に創造することもできず、破壊することもできない。それは超常空間自身の神秘性であり、形容しがたい絶対性であり、すべての数学と物理を超越し、ゲーデルの矛盾をことごとく吸い込む穴だ。


 “久遠” は、ベアが1985年から1995年にかけて書いた“The Way”という三部作の二作目にあたる。時空工学を進展させた人類が円筒状の超常宇宙を創造して居住や交易の場として利用しているような状況が、このシリーズの基本的な舞台設定。“永劫 Eon” “久遠 Eternity” “遺産 Legacy” という三部から構成される。“Legacy” は日本では未訳で、ぼくも読んだことはない。他の二作より過去の時代のエピソードを書いているらしい。“久遠” は、多少の時間的なブランクはあるものの純粋に “永劫” の続編で、ただでさえぶっ飛んでいた“永劫”をさらに進めたある種の極致に達している。“永劫” も良い作品なんだけど、何度も飽きたらず読むほどに好きかというと、そこまでではない。至高なのは “久遠”。しかしもちろん “久遠” を読むためには、“永劫” を読むことは不可欠だ。
 “永劫” では、〈道〉を創造した未来の人類がオーバーテクノロジーの権化・進歩した文明の象徴として描かれていたけど、“久遠” においては、彼らすらも未熟で過渡的な段階に見えてしまうような更なる長上の存在が現れる。あるいは、前作ではまったく謎のままだった人類の敵対種族がようやく少しだけ生態を垣間見せて、その異質な社会形態と行動原理の断片が語られたりするし、かと思うとまた別の視点では、紀元前のプトレマイオス朝マケドニアが覇権を広げ続けた結果、現在の地球にも匹敵するテクノロジーを備えた世界帝国に至っているという並行宇宙の出来事が同時進行したりもする。
 そのようにさまざまな舞台でのさまざまな存在が〈道〉を介して交錯し合うというのが基本を成すプロットなのだが、根底には、“ブラッド・ミュージック”にも通じるある種の宗教的ともいえるような世界観が横たわっている。宗教的というのは、何も倫理規範が声高に主張されているという意味ではなく、SFとして提示できる「救済」のあり方について語られているという点においてだ。すなわち、あらゆる生命·あらゆる事物が死と消滅そして忘却をまぬがれない定めにあるのだとしたら、すべては儚く空虚にすぎないのではないか?…という問いに対して、この作品はSF特有の大言壮語的·荒唐無稽的外挿でひとつの解らしきものを嘯いてみせる。個人の生・思い出・出来事……といったものが、巨大な宇宙に比して無意味に映ることなく、あるいはその逆に独我論の陥穽に陥ることもなく、それでいてなおその価値が保たれるような構図。そこでのキーワードを挙げるならばそれは「記録と再生」といったものになるだろう。そして、本を繰り返し読むという行為自体も、そのひとつの実践であると言えないこともない。





“The Way”
 Greg Bear
  Eon, 1985 (“永劫” ASIN:415010929X, ASIN:4150109303
  Eternity, 1988 (“久遠” ASIN:4150107262, ASIN:4150107270
  Legacy, 1995
  The Way of All Ghosts, 1999 (短編)


“永劫”も“久遠”も絶版のはず。図書館か古本でしか読めないと思う。






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell