::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

 舞城王太郎 “みんな元気。”






みんな元気。

みんな元気。






読んだ。
収録されている5つの作品のなかで、表題作の“みんな元気。”は、自分にとって好きな小説のほぼ理想形なんじゃないかと思う。この小説がこの世のありとあらゆる小説のなかでいちばん好き、とまで断言したいわけではなくて。ただ、この小説を読んでいくとその文章から引っかかるようなものが何もなく、身体が水分を吸収していくようにスムーズに内容が染み渡ってくるという、自分との相性の良さにおいて。
何が好きかというと、文章そのもの、登場人物たちの性格・考え方、そしてそこから透けて見える世界観。
とりわけ、一人称で為されるその語り口に聴き惚れてしまう。
ストーリーは、最初のページから既にして荒唐無稽。相当にあり得ないことが続いていくのに、登場人物たちの反応はあまりに平常で、けれどもその対処の仕方が逆にしっくりくる。出来事の展開も、実際のところ意味は掴みづらいけれど、直接的ではない何か強く訴えてくるものを感じずにはいられない。
他の4作品も、形式や特徴は似ている。けれどもスピード感と切迫感という意味では、表題作が群を抜いているように思う。それは主人公が女の子であることにも拠っている気はするのだが……。
大切なことは、恋愛小説であるということ。衝動的であるということ。




[以下、メモ]

 小説を読むこととは読者にとってどのような体験なのか



 読むという体験

 一人称小説を読むということは、読者にとってどのような体験なのだろうか?
 それは小説内の人物が目の前にいて自分に対して語りかけている、と捉えられるようなものなのか。
 それとも、主人公が書いた日記を読んでいるのと同じようなことなのか。

 何でこんなことが気になってるのかというと、自分にとっての読書行為というものがどのように体験されているのかを整理しておきたいからだ。

 三人称小説の場合は、「語り」に対して読者である自分がどのような立ち位置にいるかというようなことは、あまり気にならない。映画や演劇のように、目の前で繰り広げられる出来事がただそのまま示されている、と捉えているのだと思う。
 描写の豊かな小説であれば、もっと「入り込む」ことがある。たとえば、三人称描写で焦点を主人公に当てその行動を逐次的に追っていくような種類の長編小説を、途中で中断せず延々と読み続けていくと、だんだん登場人物たちを自分のすぐそばに感じ、その場の空気までもわかるような気分になったりすることがある。自分もその場に立ち登場人物たちのすぐそばで物事を眺めているのだけど、彼らには自分が見えず、透明な視点にいるような感じだ。


 小説内における視点

 ところが一人称小説の場合はもう少し違った事態になる。一人称小説では「私」という主語ですべての語りがおこなわれていて、明確な語り手が実体として意識されるからだ。「私」という主語で語り続けているその語りに対し、読者の視点はどこにあるのだろう? 一人称小説は、映画や演劇のような客観的視点から体験されているようには思えない。
 ここでひとつ問題となってくるのは、「内面についての語り」がどう扱われるのか、ということだ。*1
 たとえば一人称の語り手がどこかの場所の様子を語っているとするなら、読者はそれを映画のように客観的な視点から見ているように想像するかもしれないけれど、もしそのとき同時に、語り手が自身の内面についても話し始めるとしたら、どうなるだろうか?
 一人称小説の語り手が、『その場所はこういう感じのところで、こういう出来事が起こったんだけど、それについてわたしはこう感じたんだよね』と語ったならば、読者の視点はその話で描写されている場所に置かれるのではなくて、語り手がそのように話をしているその場所に引き戻されるように思える。つまり語り手の語る内容が想像されるのではなくて、読者である自分の前で語り手がそのように語っていることそれ自体の情景が想像されるのではないだろうか。
 基本的に一人称という形式は、あるひとりの人物の内面を克明に描写したいから採用されるもののはず。そしてその人物は、どこかの風景なんかを語るよりも、自分がどう感じただとか何を考えたかということを中心に語る。そのような人の思惟や感情を聴くというのは、どのような体験として処理されるのか。
 それは情景・出来事を映画のように体験する視点ではなくて、どちらかというと狭い部屋で語り手と一対一でインタビューをしているような視点かもしれない。
 あるいは、一人称の語り手が残した日記のようなものを読者がただ読んでいる、というような体験だと考えることもできる。このとき、語り手自体は読者の目に映ってこなくてもよくて、ただ日記と読者という組み合わせだけがある。それは現実にその本を読んでいる読者の視点にちょうど一致してもいる。
 さらには、そもそも「視点」なるものはなくてもいいのかもしれない。たとえば主人公が電話だとかラジオとかで読者に語り続けているように、ただ声だけが聞こえてきているような。まあそこには視点はないとしても、「聴点」なるものがあるとは言えるかもしれないが……。


 「読者」と「語り手」という対峙は不可欠なのか、それともなくてもよいのか

 いずれにしても、こうした読み方はどれも、読者である自分自身が透明な立場で存在しているようなパターンだ。そこには「語り手」に対しての「聴き手」あるいは「視点」である読者、というセットがある。
 けれども、本当にそうしたパターンだけしかないだろうか? ここではもうひとつ異なる場合を考えてみようと思う。
 それは、読者である自分がいなくなってしまうようなパターンだ。正確には、一人称小説の語り手を自分自身であるとなぞらえて読んでしまうような体験。言ってみれば感情移入の極致のようなものなのだが、一人称で書かれた「私」という語が、現実の読者としてのこの私自身を指している、と思ってしまうような読み方だ。
 そのような読み方は可能なのだろうか?

 まず、以下のようなことを考えてみたい。

 たとえばある日、ぼくが記憶喪失になってしまい自室で目覚めたとする。すべての記憶がないわけではなく、この数日の記憶だけがない。
 目の前にはパソコンがあって、ワープロ画面に日記らしきものが表示されている。
 そこには前日の日付が書かれていて、一人称で文章が綴られている。
 そうすると記憶をなくしたこのぼくは、たとえ見覚えがなくても、その文章が自分の手によって書かれた日記である可能性が高いと思うだろう。そして、記憶を喪失する経緯についての手掛かりをその日記らしきもののなかから探し出そうと試みるはずだ。
 しかし実はその日記らしきものは、ぼくが前日にネットのどこかで見て気に入った小説のフレーズを、メモ的にペーストしてあったものだとしよう。
 それは完全にフィクショナルな事柄であって、ぼく自身とは何の関係もない。
 けれどももしその内容が、SFでも歴史小説でもなく、現代日本の何の変哲もない日常を生きる人物の思考を綴ったものであるとするならば、ぼくはそれを、自分が実際に思っていたことだと考えるかもしれない。少なくともその時点では、両者の区別はつかないはずだ。

 あるいはこういうことを考えてみてもいい。
 ぼくははてなダイアリーを使ってLOGを書き続けている。
 “http://d.hatena.ne.jp/LJU/”というアドレスのなかにあるものはすべてぼく自身が書き連ねてきたものだということを信じて疑わない。
 ここで書き始めたのはけっこう前なので、最初の頃の文章は、いま見るととても新鮮だ。昔こんなこと書いてたんだ・・・と思うし、その内容はほとんど覚えていなかったりする。
 さて、今、はてなの社員にとんでもない人がいて、ぼくの古いエントリのなかに、まったく別のエントリを紛れ込ませるなんていういたずらをおこなってしまったと仮定しよう。それは巧妙にぼくの文体に似せられている。内容も、ぼくの趣味趣向を忠実になぞっている。けれども、ぼくが書いたものではない。
 あるときぼくがたまたま、そのエントリを見ることになったとする。ぼくはそれが他人によって作成されたものだと気付くだろうか。
 それが古い日付のものであれば、おそらくぼくは、覚えがないけれどそれはぼくが書いたものであって、ただ書いたことを忘れてしまったのだと思うだろう。書かれた内容はだいたいにおいて、いかにもぼくが書きそうなことに偽装されているのだけど、もしそこに普段ぼくが考えもしないようなことが一箇所だけあったとしたら、ぼくは自分自身について「再発見」するような気分になったりするかもしれない。あぁ、ぼくはこんなことを考える人間だったんだ、と。実際にはそんなことはぼくの思念にかつて一度も生じなかったにもかかわらず。

 ……以上のようなことが考えられるならば、一人称小説を、自分とは別の語り手の話に読者として耳を傾けているという体験ではなく、それが他ならぬ自分自身の思惟だと捉えて読んでしまう体験もありえなくはない。一人称小説とは誰かの残した日記のようなものであると考える場合、その日記が、他人ではなく記憶をなくした自分自身によって書かれたものだと思うこともできるからだ。もちろん、印刷された書籍を本当に自分の日記だと思ってしまう事態は考えづらいかもしれないが、一人称小説は必ずしも他人の話として読まなくてもいいかもしれないという可能性の提示としては意味があると思う。このとき、読者は必ずしも「聴き手」ではなくてもよいのだ。


 思惟を語る文体

 ここでようやく“みんな元気。”の話に戻る。

 舞城王太郎の小説は、ぼくが知る限りどれも一人称小説のはずだ。
 そしてその特徴は、一人称の文章が口語的な語り口でひたすら冗長に続いていくことにある。とくにこの“みんな元気。”では、話す内容はあちこち寄り道しながら進み、唐突に全然違う方向へ変わったりする。ひとことで言えば、整理されていない、という印象だ。ただし展開の飛躍は計算されたものでもあり、またその「整理されていない」ことこそが、人の思考内容としてリアルなのだと付け加えておく必要はあるだろう。その語りには情景・出来事の描写をしている部分も随所にあるので、必ずしも思惟内部をただ露出しているような感じではないけれども。だから、日記のようなもの、と受け取る方がいいのかもしれない。
 ところでぼくは、このはてなでのLOGとは別に、オフラインのパソコン上でも日記を書くこともあったりする。何か書き留めておきたいもっともプライベートな思惟を記録するときには、文体などは気にせず、支離滅裂にただひとりごとのように思いつくまま書いていくと、ちょうどこの小説のような体裁になっていく。小説のように会話を逐語的に書くようなことはしないけど、あとで見て思い出せるように最低限の情景・状況描写は書いたりもする。
 そうするとぼくにとってこの小説は、体裁だけ見ると自分が書いているものに近く見える。主人公と性別が違うとか、家族構成が違うとか、もっとあたりまえの根本的なことを言えば名前が違うとか、いろいろ違いはあるけれども、でも「私」という主語で綴られた文書という意味では、いかにも自分が書きそうな文章にも見えるのだ。
 もうひとつ重要なことがある。さまざまに当然な差異があるにもかかわらず、思考の仕方が似ている、共感できる、という点だ。
 自然な語り口で書かれた一人称小説というのは世の中にいろいろあると思うのだけど、そのすべてが自分と同じ物事の考え方をしているかというとそうではない。そういう小説は、いくら流れるような文体で書かれていたとしても、読んでいていろんなところで引っかかってしまう。
 けれど舞城王太郎の小説の場合、ぼくはだいたいにおいてその思考の流れ方に共感できる。単に相性の問題なのだけど、読んでいてまったく障害にならない。その共感はたとえば、自分の姉が寝ているときに宙に浮いてしまう、という現実ではあり得ないようなことに際したとき主人公が思うこと/行動することにも及ぶ。

 そのような小説を読んでいくとき、ぼくは、自分とは別の人間が語りかけてくることを聴いているような気分にはならない。そうではなくて、だんだん自分をその語り手そのものへなぞらえていき、文中での「私」という語がそれを読んでいるぼく自身を示しているかのようにまで思うほどになってくる。
 それは、作中人物の気持ちをとても身近に感じるとかいうような水準での感情移入とは異なり、自分がある意味で別種の身体性を獲得するようなものだと思うのだ。


 別の人間になるということ

 コンピュータRPGが日本に初めて入ってきたとき、その謳い文句は「主人公になりきって異世界を体験するゲーム」なんていうものだった。
 現在のRPGは、少なくともムービーシーンでは、登場人物を客観的に外から眺めているようなものとしてしか体験されないと思うのだけど、今後アバター的な3D映像技術がもっと進展していけば一人称視点のRPGなんてものも普及して、プレーヤーが自分自身の視点でゲーム内世界をほぼ現実と同様に体験できるようになったりするかもしれない。
 ただ、そうやって人間の知覚インプットを直接に操作して「異世界」を体験させるとしても、それはあくまでも現実の自分自身が維持されたまま体験していることであって、「別の人間になる」ということまでには至らないと思う。それこそアバターの映画内にあった、擬似身体の遠隔操作技術でも実現しない限りは。その場合ですら、自分の記憶や人格が同一であるならば、やはり、自分以外の何かになったとまでは言えないような気もする。
 別の人間になってみること。
 このことの哲学的意味をここであまり深入りして考えるつもりはないけれど、そのようなことを果たせるのは新しい映像技術等ではなくて、小説という昔からある単純なメディアの方だったりすると思う。
 重要なポイントは、「私」という語の機能。
 前に舞城王太郎の“ドリルホール・イン・マイ・ブレイン”について書いたとき、バンヴェニストの『〈私〉とは〈私〉と言明するもののことである 』というフレーズを引いて、人称が複数の自我(複数の〈私〉たち)を分岐させる事態のことを考えたのだけどhttp://d.hatena.ne.jp/LJU/20080920/p1、この範列には、作中内人物だけではなく「読者」を加えることもできたのだ、と今にして思う。







*1:
三人称小説の場合でも実はそうした問題はつきまとう。三人称小説は必ずしも常に客観的・俯瞰的な視点を貫くわけではなく、登場人物たちの内面を平気で説明したりすることがあるからだ。
けれどもこの問題についてはここでは触れないでおく。(このエントリのドラフトを書いているときその方向に進んで収拾つかなくなったから。)






music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell