これはすばらしいと思う。
何かすごいものを観た、という気分なのははっきりしているんだけど、さしあたりこれは〈映画〉っていうジャンルには入れない方がいいような気もしている。
タイプとしては、ロードムービー。原作は、つげ義春。舞台や時代など、設定はいくつか原作と変えられていて、オリジナルのエピソードが追加されている。
登場人物は、お互いに友人の友人同士…という、つながりがなくはないけど事実上ほぼ見知らぬ他人であるところのふたり。ひなびた土地を何となく旅していくのだけど、事件らしい事件は起こらないし、劇的な成長や発見も訪れない。絵に描いたようなクライマックスや感動なんかも当然、期待してはいけない。
三番目の同行者である敦子の登場シーンはもしかすると非日常的なイベントに区分してもいいのかもしれない。そうは言ってもそこに過剰な意味が担わされているほどでもないし、だいたい敦子を同行者に数え挙げていいものかどうかも微妙なところだったりする。あくまでも焦点はふたりの男にあって、彼らの妙な旅路を日常世界からはみ出すことなく追っていくという、ただそれだけの映像だ。
ドキュメンタリーだとか、コメディ、あるいはアート、・・・っていうふうにも言えなくもないけど、そう言うとそれはそれで何か矮小化されてしまうようで、もったいなく思える。かと言ってやっぱり、映画、っていう言葉も合わない。もっと端的に、出来事、っていう感じだ。
たとえば、ふたりがなぜか行きずりの人の家で泊まるはめになってしまったとき、留守番中にいきなり口論が始まってから家族が戻ってくるまでの流れは、とくに絶品。これは“4ヶ月、3週と2日”における食事会のシーンに匹敵すると思う。
ひとりがゲームをやっている横でもうひとりがごろ寝しながら暇を持て余し、何気なく尋ねられた一言が、旅が始まってから最初の本格的な口論を勃発させる。ディスプレイのなかではゲームキャラが、プレーヤーに放置されて動けないまま同じ場所でアニメーションを繰り返している。──ここでは、まちがいなくこの単なるゲームキャラすらも、シーンを形成する「演者」のひとりになっている。さらにそこへ、ふたりが泊まることになった経緯を知らない子供たちが帰ってきて出くわす際の、気まずさ。その再現度は圧倒的。
他にも、ボロ宿で布団を並べて語る際の修学旅行ノリな会話もすばらしいし、カラオケスナックでのグダグダなトークや、ゲーセンで三人並ぶ画面など、小人数の人間のなかに醸し出される空気を緻密に描写する名シーンがあふれている。
そして何よりも、駅前のシーンでの、ごくわずかな手の動きだけで語られる機微。
・・・映画って、もっとこういうのこそを撮ってくべきだって思う。
たいていの映画というのは「映画のなかでしか起こらないような特別なドラマ」を描いているわけだけど、この映画はそうではない。どこにでもあって誰でも共感できるような状況だけでできている。
だけど、ただ単にそれだけには終わっていない。人と人の関係性がそこからかすかに浮かび上がるということが重要だ。
ふたりの男の間には距離があり、互いについて知らないことも多いし、意見の相違もあるし、そして映画の結末になってそれらが解消されるわけでもない。けれどもその関係が、冒頭と最後とでまるで変わらないままかというとそうではなく、きわめて微弱にではあるけれど、前進のようなものを見て取ることができる。そしてそれは、わずかな差異だからこそ価値を持つ。
つまり…… たとえば逆の場合を考えてみてほしい。何かしらのある程度に成熟した人間関係があるとして、それがあるとき非常に微小な後退をみせたとするならば。あとから振り返ってみると、仮に微細なものであったとしてもそれこそが決定的で不可逆な崩壊の始まりだったりするわけだ。
そして逆に人と人の関係が近付いていくということは、やはり同様に漸進的でおぼろげだけども、その歩みのひとつひとつが次のコミュニケーションのアンカーとなるような着実な積み重ねでもある。
この映画がおこなっているのは、そうしたプロセスの精巧な記録に他ならない。だからここから人物間の繊細な変化を見出すことは、現実の生活での人間関係において何かの前進を発見するときのささやかな感銘にも似ているはずだ。
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