::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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 “EVANGELION:2.22”



ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.22 YOU CAN (NOT) ADVANCE.[DVD]


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
 EVANGELION:2.22 - YOU CAN (NOT) ADVANCE -



 DVDであらためてじっくり見たので、新劇場版に関する中間的な感想をここにまとめておきたいと思う。

 公開時に書いた文章は、これ → http://d.hatena.ne.jp/LJU/20090702/p1
 うーむ、いま見るとけっこうおおげさなこと書いてるなー・・・
 いや、このときの感想がまちがってたなんて言うつもりはぜんぜんないんだけど、誤解を招きかねない部分についてはひとつ言い添えておいた方がいいのかもしれない。
 つまり、「エヴァ破」は、決して映画としての完成度がものすごく高いというわけではないんだ。むしろけっこう荒削りだし、破綻している映画だと言ってもいいぐらい。
 ──そして同時に急いで注記してもおきたいのだけど、破綻しているとしても、それは映画としての評価やその衝撃度とはまったく独立のこと。万人が認めるような「完成された名作」よりも、明らかな破綻を孕んでいながらそうした名作をはるかに超える作品があり得ると思う。
 その詳細を以下に記しているのだが…… なんか書いてるうちに、すごく長い文章になってしまった...。





(以下、ネタバレ含む長文)


 比較を促す物語


 まず、〈破〉を見るにあたっての重要な前提として、旧作をTVシリーズ・劇場版ともに見ているということが必須の条件。
 〈破〉は、単に旧作をつくりなおしただけの映画というわけではない。旧作の展開を知った上で見ることを暗黙に求めるつくりになっている。
 それは3号機パイロットが誰になるのかという経緯においてもっともはっきり現れているように思う。
 〈序〉と違って〈破〉は、冒頭から既に旧作と随分異なる展開の描写がされているが、それでもところどころで旧作とほぼ同じ展開が入り混じっていて、細かな差異はあっても結局のところ全体的な進行は旧作を踏襲しているのだろうと視聴者に思わせる。だから映画中盤において旧作同様に4号機ロストの映像が出て来たとき、視聴者は次の展開が3号機の起動試験と使徒侵食というものになるであろうと予期する。それはたとえば〈序〉での第6使徒との戦いで、細かな展開や描写がアレンジされてはいても全体としては旧作と同じ結果に終わることと同様、予期というよりも既知の事実と言っていいほどに確かなことのはずだ。それゆえに視聴者の関心は、鈴原トウジの惨劇がこのリビルド·シリーズにおいてどのように料理されるのか、というところに向けられる。
 ところがこの後、トウジがアイスの外れを引くというあからさまにメタフォリカルなシーンから、旧作からの決定的なずれを見せ始める。トウジがパイロットではないことを暗示するこの場面は、旧作を知っていることを前提にしないとまったく意味を為さない。その後〈破〉での3号機パイロットはトウジではなくアスカであるという大きな軌道変更が明らかにされると、視聴者は、旧作でのトウジのポジションに就いたアスカが〈破〉においてこれからたどるであろう運命を確信することとなる。すなわちアスカの悲劇とは、単に物語内で起こる出来事にとどまるものではなくて、本来その役割を担っていた人物と入れ替えられてしまったということを含めての悲劇として成り立っているわけだ。
 また第10の使徒との戦いでも、2号機を駆るのがマリであるなどの相違はあっても、まず零号機と2号機が共に敗北し、そしてシンジがエヴァへの搭乗を一旦拒否しつつも再びエヴァに乗ることを選ぶ、という基本的なプロット自体は旧作と同じであり、だから応戦する初号機の内部電源が尽きたときも、この死地を脱するのは初号機の覚醒と暴走によってであるだろうことが当然に予期される。旧TVシリーズが最初に放送されたときには視聴者は誰も先の展開をわからずに見ていたわけだけど、新劇場版では、どのような窮地に陥ろうとも、その先に何が待ち受けているのかはすべては既知の事柄として把握されているのだ。
 しかしここで、たしかに初号機は覚醒状態に変わるものの、その誘因は旧作とは完全に異なり、レイを奪還しようというシンジの強い意志にあるものとして描かれることになる。これに続く一連の展開、とくにレイに「来い!」と呼びかけるところなどは、意識を失ってプラグ内に溶けてるだけだった旧作とははっきり一線を画する積極性と気迫に満ちているのだけど、このシーンでも旧作との比較はやはり避けがたく求められ、だからあたかも〈破〉でのこのシンジが、旧作から10年経って大きく成長したかのようなものとして見えなくもない。
 〈破〉が、旧作と似ているけれども根本的に違う物語であることは、序盤において視聴者が「アダム」という語が出ることを完全に予期し切っているところへ「ネブカドネザルの鍵」だなんて言われてしまう場面で早くも示唆されてはいる。このように〈破〉では、既知の情報をもとにした予期が覆されるたびに驚きがもたらされるのだが、それは旧作の各回を五里霧中で見ていたときの衝撃とはまったく異質なもので、常に新旧の比較によって生じる衝撃なのだ。
 別の言い方をすれば、〈破〉という物語は単独で成るものではなく、旧作を対照に置くことで初めて意味を為すようにできている。


 ループからの離脱

 この観点からすると〈破〉における展開上のもっとも重要なポイントは、第三新東京市へマリが飛来するシーンにある。このシーンでは、(いまのところ)新シリーズ唯一の新登場人物であるマリによってシンジの持つDATプレーヤーが壊されてしまうのだが、トラック26の末尾にたどりつくたびに何度もリピートし続けていたプレーヤーが、壊れてからは27というトラックを示すようになる。26という数字は旧TVシリーズの話数に他ならない。だから、既にいろいろなところで言われていることなのでわざわざ銘記する必要もないとは思うけれども、ここではマリという闖入者によって〈破〉の展開が旧作を逸脱し始めることが示されているわけだ。
 “YOU CAN (NOT) ADVANCE” というサブタイトルは、ひとつにはこのシーンを指していて、「進むことができる/進むことができない」という分岐をマリという新たな登場人物が司っていることが表されている。〈序〉において既に、新劇場版の物語はループ構造とそこからの離脱がテーマとして仄めかされていたわけだけども、マリの登場こそがこのループを打破するトリガーということになる。*1

 10年前、自分にとってエヴァのもっとも大きな魅力は、「先が見えないこと」だった。
 ポスト・カタストロフィックな舞台設定の上、さらに重ねてもっと巨大な災厄が予定されているという世界。登場人物たちは、次こそ世界が終わる、という緊張のもとで何とか滅亡を回避しようと健気に努力してはいるが、どうも敗色は濃厚としか思えない。物語は浮き沈みしつつも確実に何かの破滅へと向かっていく。しかし、いったいどのような結末を迎えることになるのかはまったく予想がつかない。そのような黙示録的・終末論的な舞台の臨場感は圧倒的で、その当時、何度も夢に出てきたほどだった。
 けれど旧エヴァがひとたび完結すると、当然のことながら、もう先が見えないなんていうことはない。どのようなかたちであれ、作品は終わりを迎えたのだから、その先の未来なんてもはやないのだ。
 そして10年後の今、ふたたびエヴァが作り直されるとしても、一度完結しているという事実を無視することはできない。まったく違う結末が予定されていようとも、旧シリーズの物語展開とその結末は必ず意識されてしまう。
 劇場公開時のパンフレットから、鶴巻和哉の重要な発言をいくつか引用しておく。

僕自身は今回の『新劇場版』を始めるときに「やり直しである」っていう制作の事情それ自体が「映画になる」ようにできないかと考えていたんです。『地獄の黙示録』みたいに。

だから『新劇場版』も「同じものをやり直していること自体が映画になる」みたいな展開にできないかと。物語を変化させること自体が作り手にとってまずストレスであって、劇中の登場人物にとってもストレスであって、それが観ているお客さんたちにもストレスになって……みたいな。その全体の状況含めて「映画」にならないかなと。

で、庵野さんに「こういうのはどうですか?」って相談したら、庵野さんは即座に「嫌だ。それはダメ」って反応でした(笑)。たしかに、当初『新劇場版』でめざした分かりやすいエンターテイメントとは方向性が違うんだろうと、その時はあきらめたんです。でも結果的に『破』って、まさにそれっぽくなってしまったんですけどね……。



 たぶん誰もがちらっと考えるのではないかということとして、もしかしたら今から10年経ったときにまた新しいエヴァをつくるなんて可能性もけっこう高いんじゃないか?という気がしなくもないのだけど、それは、今展開しているこの新劇場版4部作のつくられ方次第だとも思う。結局きれいにまとめることができずに更なる見直しの余地を残してしまうような終わり方を迎えると、何年かしてからもう一回つくる羽目になってしまうだろう。その意味で、エヴァは既にループのなかに囚われている。
 一度終わったはずの作品が何度も何度もつくられ続けていく、という状況の前例としてガンダムというシリーズを挙げることができると思うのだけど、“∀”こそは、そのループにとどめを刺すつくり方として見事だった。*2
 そしてエヴァ新劇場版も、作品内で「ループ」に言及している以上、“∀”と同様の決定的な終わりをエヴァに与えようという覚悟があるように思えてならない。
 であれば、そのための鍵はいったい何だろうか?


 10年の経過

 旧シリーズの大きな特徴のひとつは、衒学的に繰り出される宗教用語・学術用語の数々が物語上の謎と相まって、視聴者にさまざまな解釈を興じさせるという点にあった。当時、さまざまな謎本系の書籍が氾濫したものだし、実際、自分にとってもエヴァの主要な楽しみのひとつは、そうした用語を見つけ出し何を意味しているのかについて語り合うことにあったのは間違いないと思う。
 それでは新劇場版でも引き続きこのような「解釈ゲーム」がおこなわれるのかというと、どうもその必要はもうあまりないように思われる。そういうのって旧作の時点でさんざんおこなってきたので単純にもう飽きたっていうのもあるのだけど、新劇場版が促しているのは個々の語やシーンの意味を探ることではなく、旧作との比較対照における解釈にこそあると思うからだ。
 〈序〉では新旧の差異はそれほど際立ってはいなかった。〈破〉では、〈序〉の予告で示されていたよりもはるかに大きい変化を見せている。そして〈Q〉では、予告を見るかぎりではさらに大幅に、というかもう旧作との一致点はほとんどないようほど変化しているように思える。さらにおそろしいことには「序破急」で終わりではなく〈Q〉に続く第4作目も予定されているというのだから、最終的に新エヴァがどこにたどりつくのか、現時点で想像することなんてまったくできない。〈序〉〈破〉〈Q〉……と、シリーズが進むにつれて新旧の隔たりが少しずつ広がっていくようなつくり方からは、おのずとその差異を強く意識させられることになる。自分がはまっていたあの旧エヴァを思い起こしながら、10年後の新エヴァがどのようになったのかを確かめるという体験。思いを馳せる差異はそれにとどまらず、この10年間のアニメ文化・アニメ表現に生じた変化を、そして社会思潮・社会状況がたどった変化をもまた、意識せざるを得ない。なんといっても10年が経過しているわけで、製作者たちも10年分の人生を生きたわけだし、自分もまた同様だ。

 ―― 人はみな、歩みを等しくして年を取る  ルフレッド・シュッツ

 すべての登場人物は、10年前の同一キャラクターとの比較対照のなかに存在意義が定められている。
 このように考えると、〈破〉での新登場キャラである真希波·マリ·イラストリアスが特異な重要性を持っていることははっきりしているだろう。マリこそは10年前と比較不可能な唯一の例外であるからだ。


 旧シリーズの超克?

 物語内でのマリの位置付けは闖入者であり部外者であるわけだけど、物語外での機能としては、エヴァというアニメの破壊者として定められている(cf. 鶴巻和哉インタビュー)。そして唯一、旧シリーズに登場していないというその出自からすると、今現在初めてエヴァを体験するであろう新世代の鑑賞者に相当する存在であると言えなくもない。
 マリは、基本的に「大人たち」の思惑に流されているだけの他のエヴァ·パイロットたちとは違って、常に自分の意志で明確な行動目標を持って動いている(ex. 「自分の目的に大人を巻き込むのは、気後れするなぁ…」)。マリは旧シリーズの登場人物たちとはほとんど接点を持たず、会話も交わさない。例外は旧作において陰謀と諜報を担っていたキャラである加持リョウジと、新旧通じての主人公であるシンジ、そして第10使徒戦で一瞬話すレイだけだ。それ以外のシーンでは、ユーロらしき相手と会話を交わしているような描写があるけれど、相手は明確にはされていない。
 マリが接触を持っている相手は誰なのか? ユーロ? あるいはゼーレ?
 しかし新劇場版がメタフィクショナルな構造を持たされていることを考えると、作品世界内の組織等ではなくてむしろ製作者──それも庵野秀明ではなく、庵野からエヴァの破壊を託された鶴巻和哉こそがマリの通信相手であると考える方がしっくりくるかもしれない。つまりマリは鶴巻和哉の思惑に従って順当にエヴァの破壊に取りかかっているわけだ。


 それはともかくとしても。
 マリはつくづくかっこいい。

(嬉しそうにコントローラーを動かしながら)「いいなぁ〜、わっくわくするなぁ〜」

(武器を射出して掴み取ると)「こーれでいくかぁ〜?」(そして飛びかかる)「…にゃ!!」
(鬼の首を取ったかのごとく)「ゼロ距離ならばっ」
(肩越しに不敵な笑みを見せ)「にゃっろぉー… なんてやつ!」


 ……なんだろう、こんなに生き生きと戦うエヴァパイロットというのは。旧作のパイロットたちが悶々と戦っていたのと比べて、まぶしすぎる。
 マリは基本的に、影がないキャラだ。自分自身の目的と楽しみを両立させながらエヴァに乗り、痛みもまるで気にせず、恐怖も抱かない。ネオリベ的── なんて言ってしまうと途端に矮小化するけど、まあ「決断主義的」というふうに言っておくか……。(鶴巻和哉のインタビューでは、「昭和のオヤジキャラ」みたいに形容されてたけども。)
 このマリというキャラには最初「エヴァを破壊するためのキャラ」という以外の目論見はなかったようなことがインタビューでは語られているが、しかしこうやって〈破〉が出来た結果を見る限り、時代の変遷を体現するキャラのように見えてしまう。つまり、エヴァが創始させたぐらいにまで言われてるいわゆる「90年代のセカイ系」を乗り越える、「ゼロ年代決断主義」を象徴するようなキャラとして。
 そもそもエヴァセカイ系なのか、っていう点に関してはあまり同意できないし、必ずしも [セカイ系決断主義→???] という構図にすべてが従わなくてはならないわけではないだろうけど、でも「エヴァ以降」の時流のなかに、エヴァへのひとつの反動としてのポジティヴネスがあったことは事実だと思うので(わかりやすい例を言えば「トップをねらえ2!」だとか「グレンラガン」だ)、その意味ではやはりマリは、はっきり旧作に対置するキャラとして配されていると整理できる。
 そして旧シリーズをポジティヴに超克しているキャラは、マリだけではない。
 たとえばレイ。

「碇くんが、もう、エヴァに乗らなくて いいようにする! ……だから!」
「逃げて、二号機のヒト! ありがとう」


 このきっぱりした「ありがとう」の迷いのなさは、かなり新鮮だった。
 旧作では、“2人目のレイ”は第16使徒戦での涙と自爆によって自己の意志を発露させたわけだけれども、でも〈破〉でのこの「ありがとう」ほど明確に他人に向けられた台詞は、旧シリーズではついに発せらなかった気がする。
 もちろん、サードインパクト招来をも辞さずにレイを取り戻したシンジもまた、この範列に加えられる。
 〈破〉のラストでのシンジをみると、旧シリーズでシンジが悩み続けていたことがすべて打破されたかのようにまで思えてしまう。


 失敗による成功

 さて。
 しかし問題は、新劇場版が〈破〉で終わるわけではなく、それどころかあと二作も残っているということだ。
 はっきりいって〈破〉の最後、シンジがレイを助け出したところで新劇場版シリーズが完結していれば、それはそれできれいな終わり方だったとは思う。仮にそのあとサードインパクトに見舞われたとしても、純粋に物語として考えるならば、ひとつのまとまったかたちになっている。だって旧シリーズであれだけネガティヴでほとんど成功体験もなかったシンジが、自分の強い意志でレイの救出に向かい、見事にそれを果たすのだから。それは充分に強く前向きなメッセージだと思う。
 でも、そうはなっていない。
 新シリーズは、〈破〉では終わらなかった。もしかしたら大団円になっていたかもしれない「終わり」は、カヲルの手によって阻まれ、レイとシンジは凍結されてしまう。そして物語はまだ映画二本分が残っている。二本分も! それだけあれば、ゼロから語り直したってまだひとつの物語をまとめるに足りるだろう。新シリーズのエヴァは、まだようやく始まったぐらいのところなのかもしれない。
 でも実際のところ、ここできれいに終わっていなくて、良かったと思っている。
 「人間性の高さ」だとか「成長」「克服」だとかをただ賞賛するような物語テーマは、基本的に俺自身の興味の範疇にはない。
 そういう誰も反対できないような価値基準が最終的に実現される映画こそが「よくできた映画」と言われるものであろうことに異論はないのだけれど、みんながみんなそれを目指さなくてもいいわけだし、少なくとも俺はエヴァに対してそんなものは望んではいない。
 なぜならエヴァは、未完成であり荒削りであることが切っても切り離せないものだと思っているからだ。
 旧シリーズのときから、エヴァが物語作品として一分の隙もなく整合性のあるものだなんて思ったことはなくて、むしろ、いつも破綻を孕み、迷走と放り投げとを伴う試行錯誤な作品であったことにこそ思い入れを持っていた。
 そしてそれは、10年の歳月を経過し、投入される資本とスタッフを増加させた新作においてもなお残っている。
 最初に劇場で〈破〉を見たときには、興奮で細かいところはほとんど気にならなかったけど、DVDでじっくり見てみるといろいろひっかかるところがある。日常パートからシリアスパートへの移行もそれほどきれいではないし、配分もバランスよくない。登場人物たちの性格などが旧作からだいぶ変わっているにもかかわらず、充分に掘り下げられているとは思えない。おそらく旧作を見た人ならば新劇場版は間違いなく楽しめるだろうとは思うけど、もし旧作をまったく知らずに新劇場版から初めて見た場合、エヴァというものに高い評価を与えることはないような気がする。
 それでも〈序〉までであれば、まともなエンターテイメントとしてうまくリビルドできていたと言うことはできたと思う。TV放送の時点で既に完成度の高かった5・6話をメインに据えているのだから、もともと大きな破綻は起こりづらかったとも言える。新エヴァが、旧エヴァで果たせなかった「完成させること」を目指して試みられているとするなら、〈序〉だけを見るかぎりその試みは成功していると判断できるだろう。
 しかし〈破〉を見ると、新エヴァも、いわゆる「よくできた映画」という路線からは外れ始めているように思う。5・6話同様に評価の高い18・19話のストーリーを変更せずそのまま活かしていたならば、もしかしたら〈破〉も〈序〉と同じように良質なエンターテイメントになっていたかもしれない。けれど〈破〉は、全体のストーリーを旧作とは違うところへ帰着させるために大きな軌道変更を始めていて、そのため18・19話相当部分の展開は旧作と決定的な違いをもったものになっている。改変後の内容もそれなりに衝撃的ではあるし、旧作にはなかった新たなキャラクター付けも強いメッセージ性を持ったものとして成功しているとは思うのだけど、それらはあくまでも旧作との比較を前提にしてのことであって、もし仮に旧作がまったくないままに〈破〉がつくられていたとしたら、それでもそれが旧作に克つ強さを持つ作品となっていたと断言できるかどうか、確信がない。
 そのように、〈破〉では旧作からの大幅な逸脱が開始されているし、この段階でのずれの大きさからして、残る二作の展開は過去のシリーズとはまったく異なる方向へ進むはずだ。そして現時点で感覚的に予想するなら、このまま進んでいくと、新劇場版のシリーズがきれいなかたちで収束することはないようにも思う。


 そして…… そうだとしても、それこそがエヴァにもっともふさわしい理想的な終わり方ではないだろうか。
 というのは、旧シリーズは、作品としての完成に失敗したからこそあれだけ話題になりヒットした、と言うこともできるからだ。
 一度目は誰もが認める明らかな失敗に終わり(TVシリーズ最終話の「おめでとう」)、ふたたびきれいな完結を目指して劇場版をつくるものの、それも正統的な「よくできた映画」としての完結を求める人たちの目からみれば失敗しているとしか思えない終わりを迎えた(「気持ち悪い」)。
 もしTVシリーズが何かしらのきれいなかたちで終わっていたら、アニメファン以外へこれだけ膾炙するようなこともなかっただろう。また、旧劇場版が万人に受け入れられるようなうまくまとまった終わり方をしていたならば、ふたたび10年後に新シリーズが制作されることもなかったように思う。
 そして、 そもそもエヴァの始まりですらも、先行する失敗から生まれているとも言える(ナディアでボロボロになった庵野秀明)。
 つまりエヴァは、失敗し続けてきたことにより継続し、失敗し続けてきたからこそ多くの関心を得たというかたちでの成功を達成してきた。

 その意味から言うと新劇場版のエヴァは、10年分の技術の進展と10年分の制作者たちの人生とを加えているにもかかわらず、10年前とまったく同様に方向性に迷い、もがきながらつくられている。
 たとえば、新シリーズではカヲルがメタフィクショナルな役割を担うキャラにされているわけだけど、彼の「今度こそ幸せになってもらうよ」という台詞にこそ、そうした迷いが象徴的に現れ出ていると思う。この台詞はまさに制作者による宣言でもある。そして作中人物の口を借りてまでそう宣言せざるを得ないのは、それだけ覚悟しているということでもあるけれど、ある意味では追いつめられているということの表れでもあるはずだ。
 そのように、何かひとつの完成された作品という境地を目指しつつも結果として中途半端になってしまうような試み、その姿は10年前と変わらない。
 ヴィジュアル面において、時代に見合う以上の進化を遂げ、内容面では、かつてはいなかったタイプの新キャラを加え、それでいてなお、自分があのとき見ていたエヴァが持っていたもっとも重要な部分が維持されている。
 俺が見たいのは、そういうエヴァなんだ。









 その他

 先の展開をいろいろ予想しつつも、結局のところ思いもしなかったようなかたちで実際のストーリーが示されて衝撃を受ける、というのが旧エヴァの楽しみ方のひとつにあったと思うので、新エヴァに対してもひとつだけ今後の予想をしておきたい。
 〈Q〉の予告編で “PRIVATE CONFERENCE BETWEEN MARI MAKINAMI ILLUSTRIOUS & ????” というテロップが表示されるのだけど、この「個別協議」なるものでのマリの相手が、テロップ上、文字が消されていて誰だかがわからない。
 これは誰なのだろうか?
 そもそもこの予告編では「マリと誰かの個別協議」といい「ゼーレの子供たちの会合」といい、旧シリーズ25・26話とか旧劇場版「DEATH」あたりの雰囲気が色濃く感じられる要素が多く、これだけでも新劇場版がきれいに着地することを疑うに充分だと思うほどだったりする。
 それはともかくとしても、なぜマリの協議相手が消されているのか、ということは少し気になる。
 消されている文字数と直前の映像がヒントになるのであれば、「REI AYANAMI」あたりが妥当とは思うけれど、それでも若干文字数が合わないということと、映像から類推できるのであればなぜわざわざ消すのだろう、というところが疑わしい。
 「個別協議」だなんて特別扱いされているふたりのうちひとりにマリがいるということは、マリがそれだけ重要な役割を持つキャラであることが示されているといえる。そしてもう一方も同等に重要なキャラのはずだ。
 また、「ゼーレの子供たちの会合」というテロップの次にこのテロップが来ていることからすると、この「個別協議」とは、エヴァパイロット全体の会合の次にパイロットのうちの誰かふたりでおこなわれた個別会合である、という可能性が高いと思える。
 そうすると、候補としては、
  [1] シンジ
  [2] レイ
  [3] アスカ
  [4] カヲル
  [5] 新たに登場するエヴァパイロット
 ということになるのだろうか。
 このなかで、[1] シンジ は外してもいいと思う。主人公がもっとも重要性の高いキャラであることは歴然としているので、特別なふたりのうちひとりが主人公であることは充分考えられるのだけど、それだとわざわざ文字を消すことの意味がよくわからない。
 つまりこのテロップは、名前を隠すことによってさらなる何かを隠そうとしている。
 その意味で言うと、[5] 新たに登場するエヴァパイロット というのも捨てがたい。「胎動するエヴァ8号機とそのパイロット」というナレーションからすると、〈Q〉でもうひとりエヴァパイロットが新登場したりする可能性はなくはないし、もしそうなら名前を消す理由として妥当だと思う。
 けれどもここでは、あえて [3] アスカ を予想として挙げておこうと思う。
 というのは、アスカは、よく考えると新シリーズにおいて少し特別な事情を持たされたキャラであるからだ。
 それは、名前が変更されているということ。
 新旧両方に登場する人物のなかでアスカだけが、旧作の「惣流·アスカ·ラングレー」から「式波·アスカ·ラングレー」へと名前が変更されている。この変更によって、パイロットのなかの3人の女の子が、「綾波」「式波」「真希波」というように「波」という語を共通に持たされることとなった(より正確には、「波」の語を持つ旧海軍艦船名であるという共通点を持たされている)
 この名前変更の理由はまだ明らかされていないと思うのだけど、可能性としてはふたつ考えられると思う。ひとつは、作品世界外での理由。単に制作者がエヴァパイロットの女の子たちを似た名字で揃えたかっただけであって、作品世界内での意味付けは特にない場合。もうひとつは、作品世界内での理由。たとえば、この3人は実はみんな綾波レイと同様に何らかのかたちで「つくられた」人物であって、その人為的誕生の経緯で、3人共に似たような名字が作品世界内の誰かによって付けられた、という場合。
 理由としてはそのどちらかだと思うけれど、ただ、さしあたりはどちらであってもよくて、重要なのは、理由が何であれ、アスカだけが名字を変更させられることになっているという事実だ。
 マリだけが(いまのところ)新劇場版からの新登場した唯一の人物、と書いてきたけど、実際のところ、名字が変更されているアスカも半分は新登場キャラみたいなものであると言えなくもない。マリが新作で生まれたキャラであり、マリとアスカ以外のキャラが旧作で生まれたキャラであるなら、式波·アスカ·ラングレーは新旧両作品から生まれたようなキャラであって、だから新旧を両義的にまたぐ唯一のキャラでもある。
 あるいはこう言ってもいいかもしれない。アスカは新劇場版の登場人物のなかで唯一、目にみえるかたちで旧作から変化させられたキャラクターであると。さらに踏み込んで言うなら、「エヴァを壊すこと」を目的地に定めた新劇場版エヴァにおいて、アスカだけは、登場の時点で既に名前の分だけ壊されてしまっている。
 この新劇場版には、紀年法をめぐる謎というのがあって、旧作と違い作中の時間が西暦何年なのかの明記がなぜか慎重に避けられている。このことが、新劇場版は旧作の人類補完計画から生じた、何か思念世界上でループされている物語なのではないか、という説を生んでいるわけだけれども、もしそうだとするならば、完全に新たなキャラであるところのマリと、半分だけ新キャラであるところのアスカは、そのループから逸脱している稀少な存在であると言える。その意味において、ふたりだけの個別協議をおこなっても不思議ではないぐらいの特別性を持っている*3。そしてテロップから名前を消しているのは、そうしたアスカの特別性をこの時点で明かしたくなかったからではないだろうか。
 たぶん今後公開される実際の作品中では「子供たちの会合」だとか「マリと誰かの個別協議」だとかも、文字通りの会議のように表現されるわけではなくて、ただ該当する登場人物たちが何かしらの会話をおこなう程度で描写されるだけの気がするけれども、少なくとも、マリおよびそれに見合うもうひとりの誰かとの間で何らかの重要な会話が交わされるということだけは確かなのだろう。そして今ここでは、その相手はアスカであり、そこで交わされる会話の内容とは、作品世界のループ構造に関連した何かである、ということを予想しておこうと思う。







*1:
 そしてループとは、エヴァが10年経ってあらたに作り直される/作り直されてなくてはならないということであり、また、旧作での「学園エヴァ」に象徴されるような、「破綻エヴァ」を受け入れられずに作品世界内に閉じてしまうような反応の仕方を含むとも思う。

*2:
 もちろん“∀”以後もなおガンダムの名を冠するシリーズがつくられ続けているわけだけど、“∀”はそれらすべてを含めてガンダムを未来永劫終わらせるようなつくりをしている。

*3:
 そうするともちろん、ひとりだけ世界のループを自覚しているかのようなカヲルの存在も気になってはくるけれども、そうであるからこそカヲルは他の人物とはまた違う階梯にいるような気はする。






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell