“Dogville”
Director : Lars von Trier
Denmark/Sweden/Norway/Finland/UK/France/Germany/Netherlands, 2003
いままで見た映画のなかで、衝撃度や迫真性といった観点で考えるなら “4ヶ月、3週と2日” をトップに、“エレファント” を次点として選びたいのだけど、今回見たこの “ドッグヴィル” もこれらに劣らない位置にランクインさせたいと思う。
〈人間集団の本質に迫る前衛的な映画『ドッグヴィル』と『マンダレイ』〉(情報考学 Passion For The Future / 橋本大也)…というエントリで知った作品で、とても独特な表現で撮られているという紹介に関心を引かれて即座にレンタルしたのだけど、176分という長さにもかかわらず、かなり入り込んで見ることができた。
これは “ドッグヴィル” という名の、アメリカの小さな村での物語。
この映画では、ロケもセットも使われていない。いや、セットは使われてはいるのだけど、家屋や街並を忠実に再現したようなものではない。物語は最初から最後まで、ひとつの巨大な空間のなかだけで繰り広げられる。床の上にチョークで書き割りがしてあって、それらが村にある家や街路を示しているのだ。地図とか模式図のように書かれた「村」。その上に、最小限の家具や扉や店舗のショーウィンドウなど、物語上意味のある要素だけが実際に設えられている。
主たる登場人物は、村人23人および主人公。村で暮らすこの全員が一貫して同じ大部屋セットのなかにいる。家と家の間はいわば透明な壁で区切られていて、どこかの家の内部でのシーンが描かれているときでも、よその家の中や街路がすべて見えている状態だ。
いってみればミニマルな舞台演劇のようなものなのだけど、演劇と違うのは、「客席」が無いということ。カメラは、普通の映画と同様に、カットを細かく切り分けて撮っている。演劇の場合だったら客席からの固定した視点しかないところを、この映画では、広いステージの上を観客の視点が幽霊のように飛びまわっている感じだ。
チョークで村を表す床には、Elm Street だとか The Old Lady's Bench だとか House of Jeremiah など、場所の名前がそのまま文字で書かれていたりもする。天井からの俯瞰的なアングルで村の全景が見下ろされると、グラフィカルなダイアグラムの上を人々が動き回っているようで、ゲーム画面を見ているような、あるいは何かの実験映像を見ているようでもある。
まず、このような「空間の描かれ方」が興味深かった。
現実の世界では、住宅というのは外壁や内部の間仕切によって内外および部屋同士を区切っている。この映画では、もしそうした仕切りがすべて透明だったら世界はどう見えるだろう?ということが示されている。その眺めはとてもシュールなものだ。映画の観客にはすべてが見えているのに、演じている人物たちは、あくまでもチョークで引かれた線が不透明の壁であるかのように振る舞っているのだから。つまり、「ここには壁はないけどこの線が壁を意味しているんですよ」という約束事によってこの仕切りは成立しているわけだ。
それは子供の「おままごと」で、ゴザを敷いてそこを家だと見立てることにも似ている。別に物理的な仕切りがあるわけでもないのに、敷かれたゴザが内外の行為の区分を定める。あるいは、「国境」というものにも同じような面があるかもしれない。アフリカ諸国で、自然物による目印が何もない砂漠に引かれた国境線は、いわば観念のなかだけに存在する境界でしかないのに、国と国を実際に仕切る機能を果たしている。
もちろん、都市というものはそのように社会的境界だけで構成されているわけではない。けれども、たとえば電車内で、携帯やゲーム機に没頭したり知己同士で会話している人たちが、互いに接点もないまま狭い空間で共存している様子などを思い起こすと、ドッグヴィルと同じようにシュールな光景はある程度現実のものであるのかもしれないとも思える。
さて、この映画で特筆すべき点はそうした空間演出だけではない。物語自体も、とても衝撃的なものだ。
物語は、23人だけが住む辺鄙な村に、ギャングから逃げてきたひとりの女性がさまよいこんだことから始まる。かくまってもらうかわりに村人それぞれに何か労務作業を提供する、という取り決めをおこなって彼女は村に住まわせてもらうのだが、時間が経つにつれて次第に村人の要求が変化していく……といったような筋書きだ。“外部から半ば隔絶された小村に迷い込んできた女性”という時点で、どう展開していくかある程度予想できたりもするけれど、その表現が圧倒的なため、クリシェからは程遠い。つまり、部屋や風景といったものが抽象化されていることで、役者の演技がとても際立つのだ。同様に、具体的に現れている一部の小物──たとえば人形や首輪といった重要なアイテムの持つ印象も強調される。そのようにして、悪意というものがエスカレートしていく様子が、非常に強度をもって描写されていく。
精神的に健康な状態でなければ、この映画を見ることは勧められないかもしれない。普通の映画のように具象的な空間で描かれていれば、同じストーリーであったとしても虚構と割り切って見れるような気がするのだけど、いかにも書き割り的な舞台で演じられるこの映画の方が、閉鎖的世界で狂気だけが煮詰められている印象を受ける。
ただし、この映画が単に後味のよくないだけの映画かというと、そうでもない*1。途中までは、これはどう考えても後味よくない終わり方になるだろうな…と感じながら見てたのだけど、不快や恐怖のピークは思っていたよりも早く訪れ、その後は少しばかり予想を外れた展開に向かった。最終的には、ある種の病んだカタルシスがないこともない。そして、この主人公は決して悲劇に見舞われた聖女のような人物ではなくて……そのような面もあるにはあるが、重要な核はむしろその真逆なのだとも思う。キーワードは“傲慢 arrogant”という言葉。ラストの一連の会話シーンは、映画のそれまでの展開の何もかもを超然とするような位置にあって、あたかも神々の対話のごとくにも見える。この映画の心髄は、ここにある。
また、情景がすべてチョークで書かれていることは、空間としてのおもしろさがあると同時に物語を描く上での大きな意義も持っていることが、最終的なシーンでわかる。もし具体的につくられた村で撮られていたなら、最後のシーンはこのようなインパクトにはならなかっただろう。
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*1:ちなみにダンサー・イン・ザ・ダークと同じ監督でもある