“Шлем ужаса”
2005
Виктор Олегович Пелевин
ISBN:4047915238
- 作者: ヴィクトルペレーヴィン,Victor Pelevin,中村唯史
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2006/12/01
- メディア: 単行本
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あるとき、どことも知れぬ小部屋のなかで目覚める。部屋の中にはドアが二つ、そしてベッドと机。
ここに至るまでの記憶はない。……自分はどうしてここにいるのか?
机の上にはパソコンがあり、画面にはチャットの文字が表示されている。
チャットに文章を打ち込んでみると、同じような境遇にいる者たちからの返答が寄せられてくる。
どうやらこの「迷宮」に囚われているのは8人の男女のようだ。
8人はチャットのみでコミュニケーションを取りながら、脱出の算段を練り始める。
しかしやがて、この迷宮には恐ろしい怪物〈ミノタウロス〉がいるらしいという情報が浮かび上がる。唯一の希望は、怪物を討つ〈テセウス〉を見つけだすこと――。
以上のような導入部を持つロシアの小説。
これだけ読むと、映画“CUBE”のように知恵を尽くした迷宮脱出劇のようにも思えるけれど、そういう小説ではない。もっと実験的で前衛的だ。
物語は最初から最後まで、チャットの文章だけで成り立っている。
彼らの会話内容は、序盤でこそ状況確認や情報交換に向けられているものの、その後は次第に、極度に思弁的な内容へとシフトしていく。
最終的には、あるひとつの結末らしきものにたどり着くのだけど、それは上記の導入部から想像されるようなものとはまったくかけ離れている。
(以下、直接的なネタバレはしてないけどかなりそれを示唆してるかもしれない内容)
[メモ]
1.
題名にもなっている〈恐怖の兜〉という言葉がひとつのキーとなっている。
この言葉をめぐる文章の数々がまたとてもわかりづらいのだが、読んでいくと、どうもこの〈恐怖の兜〉というのはカント的な観念論哲学の話をしているように思えなくもない。
モンストラダムス
もしアステリスクも知覚もその他のものも、すべてが「迷宮分離機」のなかでつくり出されているのだとすれば、そのとき私たちはどうして、アステリスクがその他すべてを知覚していると言うことができるのかね?
ナッツ・クラッカー
つまり、いずれにせよ、恐怖の兜は、みずからを構成している一部分の中から生じ、別の部分の内部に存在しているということになる。これのどこに正常な論理があると言える?
――アステリスクというのは迷宮の絶対的支配者らしいのだが、実は迷宮どころか『周囲に見えるすべて、そしてその他多くのものの造物主』らしい。さらには『神などアステリスクの前では使い走りのようなもの』でもあると。そしてアステリスクを図解的に表徴するのが〈恐怖の兜〉である。
〈恐怖の兜〉というのが脳……というより精神そのもののことであるならば、先程の引用個所は、構成主義的認識論の構図にそのまま重なるように思う。
2.
最終的な〈ミノタウロス〉の顕現。
ここは……アルファベット文字による文章で読まないとだいぶインパクトが薄れてしまうのは否めない。ロシア語の原文(キリル文字?)ではどうなっていたのだろう? 少なくとも日本語翻訳にはなじまない気はする。
ただ、全体がチャット文だけで表されていることは効いていると思う。だからこそ結末では、これを読んでいるのは誰で、どのような状況なのか、ということを考えざるを得なくなる。
そしてこれに〈恐怖の兜〉をめぐる会話を重ね合わせてみると、たぶん、認識なるものは最終的には言語に回収される、というような解釈になっていくのかな……。
そうしたテクスト至上的なところなど、とてもポストモダンな小説だとと思う。