小谷元彦展 幽体の知覚 Phantom Limb
森美術館, 2010.11.27 - 2011.02.27.
彫刻や写真、映像といったさまざまな表現手法で、広大な展示スペースに溢れる作品の数々。
テーマはわりと一貫している。死、生命。時間。といったことだ。
堪能した。
[メモ]
No.44
“No.44”, Odani Motohiko, Mori Art Museum
CC BY-NC-ND 2.0
無数のシャボン玉が壁に向かって漂い割れていく様を映した作品。シャボン玉には作家自身の血液が混ぜられていて、割れると血が飛び散る。生物のように。
割れる前のシャボン玉は、多少色が濁ってはいるもののそこに血が混ざっているとはわからない。割れて血が飛び散ることで初めて血が混ぜられていたとわかり、そのことによって、あたかもシャボン玉が生命を宿していたかのように思える。割れたあとにわかるということが重要だ。『シャボン玉に与えられた生命』は、遡行的なものとして見出される。しかし、シャボン玉はひとつではなく、次から次へとやって来て割れ続けている。ひとつのシャボン玉に対しては事後的に『生命』が発見されるものであっても、割れたシャボン玉からの類推によって、他のシャボン玉にも同様の擬似生命が宿っていることが認識される。
さて。このことは、実際の人間の生/死と似た構図になっているとも言える。いかなる人間も、過去に自分の死を体験したことはない。死という概念は、過去における他者の死からの類推的なものとして把握されている。そして血を宿したこれらのシャボン玉も、同様の構図で鮮やかに生/死を描いている。
この作品がいちばん好きかもしれない。
Hollow (Series)
“Hollow: What rushes through every mind”, Odani Motohiko, Mori Art Museum
CC BY-NC-ND 2.0
蝋による彫刻。人の体から、オーラ・気のような神秘的なエネルギーが出ている様子を視覚化したもの。
この場合での「オーラ・気のようなもの」とは、文脈を欠いた何か自明な意味で捉えるというよりは、さまざまなサブカルチャー表現で流布されてきたイメージの文脈下において捉えるべきだろう。そもそも「オーラ・気のようなもの」という概念をわれわれは、そうしたサブカルチャー表現を媒介したものとしてしか知り得ない。だからこれらの作品は、どこかの漫画やアニメで見た・知ったイメージがここでアート作品として彫刻化されているようなものとして体験される。その意味でこれらはまったく新奇なものではなく、むしろ慣れ親しんだイメージとして映る。現実に体験したことなどない事象であるにもかかわらず。
つまりこれらの作品が描き出しているのは決して「生物に内在される神秘的な力や本質」云々ではなく、鑑賞者たちにそうしたメディア体験がどれだけ刻み込まれているかという事実をこそ浮かび上がらせるものだ。
inferno
“inferno”, Odani Motohiko, Mori Art Museum
CC BY-NC-ND 2.0
流れる滝の映像が投影されるスクリーンで全周を囲まれた部屋。床と天井は鏡面。上方と下方へ空間が無限に続き、そのなかを滝が流れ落ちるように見える。
滝の映像は巻き戻しされたり停止したりする。あたかも時間が操作されているかのようなものとして。
自分の部屋・仕事場が恒久的にこういう空間だったらおもしろいかもしれない。そういうのは空間としてあたらしいと思う。
SP2 New Born (Series)
“SP2 New Born”, Odani Motohiko, Mori Art Museum
CC BY-NC-ND 2.0
動物の骨のようなもので構成された彫刻作品。動物が動いていくときの軌跡を凍りつかせてつくったような。
運動から形象を生成する試み。あるいは、断片を時間次元で配列することによる、運動の視覚化。
Phantom Limb
“Phantom Limb”, Odani Motohiko, Mori Art Museum
CC BY-NC-ND 2.0
血塗られた掌を持つ少女の写真で、痛々しい。しかし近付いてよく見てみると、それは血ではなく握りつぶしたラズベリーにすぎないことがわかる。
最初に遠くから見たときに鑑賞者が感じる“痛み”は、偽りのものであったわけだ。いわば幻肢痛のようなもので、実際に痛みを感じるべき対象がないのに勝手に感じる幻。
でも、もし写真に近付くことができなければ、この痛みはそのまま残っていたのかどうか。解像度の低い写真として世の中に広まっていたら、この写真は糾弾されるべきものとして扱われるのかどうか。……など、考えさせられる。