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 アッバス・キアロスタミ “トスカーナの贋作”






“Copie conforme”
 Director : Abbas Kiarostami
 France, Italy, Belgium, 2010





 キアロスタミがイラン外で初めて撮った作品。
 舞台はイタリア、トスカーナ。「オリジナルと贋作」というテーマの本を書いたイギリス人作家が講演のため訪れ、聴衆のひとりだったフランス人女性と知り合う。カフェで夫婦と誤解されたことを発端として、ふたりは長年連れ添った夫婦であるかのように振る舞い始める。次第に虚実は入り乱れ、倦怠や衝突、そしてその後の和解といった関係が、あたかも本当の夫婦同様に繰り広げられていく。

 ふたりが夫婦を演じ始める、といっても、「単なる知り合い同士」から「虚構の夫婦」への移行はあまりにもシームレスで、何か遊びとして始められたとも見えない。映画の設定が、ある時点から急にまったく別のものに変わったかのように見えるほどだ。


いくつかポイント:
▼虚構/現実の区別が曖昧になっていくということ
  ・ただそれだけだと使い古されたポストモダン的テーマにも見えてしまうけれど……。でもだからといって即座に斥ける必要もない、普遍的なテーマではあると思う。


#1. 虚構/現実の区別といっても、映画・劇・演技というのはそもそも虚構。だからこの映画でおこなわれているのは、「演じること」を演じる、という入れ子状の関係。
 #1_1. そしてこの入れ子関係は累進的に進行し得る。「***を演じる」ということを演じる」ということを演じる」……(以下続く)
#2. 「夫婦を演じる」というふたりのやり取りは、まったく無秩序に進行していくわけではない。互いが繰り出す「設定」は相手にも遵守される。約束事・ルールが貫徹している。双方がアドリブ的に応酬していくけれど、そのたびに、双方が拠って立つ準拠点が構築されていく(*)。そのようにして双方のコミュニケーションが継続・深化する。
  (*)…ただし、本当にそう言い切れるのかどうか……。たとえば「一日おきに髭を剃る」という設定がお互い確認せずに共有されている、ということには別の説明が要るのかもしれない?


▼対称的理解と非対称的理解
 映画内では、イタリア語、フランス語、英語という三つの言語が話される。
 ふたりはお互い英語とフランス語を解するので、ひとりが英語で話し続ける一方もうひとりはフランス語で話し続けたりして、それでもコミュニケーションは支障なく成立し進行する。けれどもイタリア語に関しては、片方はわかるけれどもう片方はわからない。
 この映画における「次第に虚構化が進展していくこと」というのは、基本的に、対話の進行によっておこなわれていく。そしてその対話を構成する言語は、ふたりが共に理解可能なふたつの言語と、片方はわかるけれどもう片方はわからないというひとつの言語。理解が可能か不可能かというパラメータに関しての対称性と非対称性が設定されている。どんなときも自明に理解が為されるのではなく、そもそも言語レベルで理解が為されない選択肢が混ざっている。(cf. イングロリアス・バスターズでの複数言語)


▼鏡の多用

#1.さまざまなシーンで鏡がフィーチャーされている。画面内にある鏡のなかで、角度的に見えないはずの事柄が展開してたりする。
#2.そうかと思うと、洗面鏡を正面から撮影しているようなシーンもある。登場人物の目には鏡が映っているのだろうけれども、映画の観客には鏡は映っていない。


IMDb : http://www.imdb.com/title/tt1020773/


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―Angela Mitchell