::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

 入不二基義 “相対主義の極北”






相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)

相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)






 「相対主義」と「独我論(あとこれに「構築主義」を加えてもいい)というのは、得てして即座に否定されがちなものだけど、その否定をきちんと論理を追って成し遂げるのは実は難しい。たいていの場合そのようなプロセスを経ることなく、単に自明な批判属性として扱われている気がする。『それでは独我論になってしまう』『それでは相対主義に陥ってしまう』みたいな言われ方として。
 これらへ接する態度としては、日常のなかでそれらは端的に不必要であるという言い方が無難であり充分であると思ってはいるのだけど(『それを考えなくても/考えないようにしないと社会はまわらない』)、それはそれとして、実際どうなのかというのをどこかできちんと考えておきたいと常々思っていた。「独我論」というのは〈プライベート〉に思考されるべきものだとしてもよいのだけど、「相対主義」の方は日常生活のなかでわりと登場することもなくはないので、特に。
 その意味で、「相対主義」についての論考であるこの本はとても有用だ。
 相対主義とはどういうものか、そして、相対主義への批判とその有効性の検討、といったところが良く整理されていて役立つ。
 けれどこの本の焦点はそこにはない。全体としての内容は相対主義擁護であるとも言いがたく、一般に思われているであろう相対主義とは別のありようとしての相対主義が示されている。相対主義とは単に「考え方や観点は人それぞれ」というようなことではなくて、「非対称性が無限後退する運動」である、というのが枢要。そしてそれを徹底化するとどういう極致に到達するのか、というのが描かれる。
 
第2章・第3章あたりが、相対主義ってそうあっさり否定できるようなものではないよ?という内容。
第4章・第5章は、関連する議論との共通点など。
第6章は特に重要。第3章からの接続で、「私たち」というこの本の焦点へ議論を展開するポイント。
第7章・第8章・第9章は、《極限的な実在論と徹底化された相対主義は一致する》という結論への収束。



[以下、ノート]


 


序論 「地平線と国境線」と「足の裏の影」


 


第1章 相対主義という考え方



  • 相対主義とはどのような考え方のことか。
    • 相対主義のエレメントは6つある。
       1. 内在化 … 超越的な視点の拒否
       2. 複数化
       3. 断絶性 … 複数のパラダイム間の断絶性
       4. 再帰性 … 1〜3を見る視線自体も内在化され、超越性を否定される
       5. 相対性と絶対性の反転
       6. 非-知の次元
      (1, 2, 3, 4:ウィンチ、クーン 5:ヘルダー、カント 6:プロタゴラス



第2章 プロタゴラスの人間尺度説



    • プロタゴラス説の問題点 (→後続の章にて検討)
       1. 個人主義的解釈の逸脱
       2. 無限後退
       3. 無限後退がどこかでストップするとしたら、それは絶対的視点になってしまうのでは。
       4. 「にとって」と「端的に偽である」との「外側争い」→両者のコミュニケーションがそもそも成立していないのでは。
    • 「真理は各個人に対して相対的である」という個人主義的解釈は不適切。「真理は枠組みXに対して相対的である」と考えるべきである。



第3章 相対主義は自己論駁的か



  • 「枠組み相対主義」の主張T:《どんな真である主張や見解も、ある認識の枠組みXにおいて相対的に真であるにすぎない》
     →Tは、T自体に自己適用されるのか
      • Tが自己適用されない場合:矛盾とは言えないが、相対主義の不徹底という点では責められ得る。
      • Tが自己適用される場合:メタレベルにおける相対性の肯定と、オブジェクトレベルにおける相対性の否定は矛盾しない。ただし、無限後退に陥る。
  • 矛盾と無限後退について
    • マクタガートの時間論(“時間は実在しない”):過去/現在/未来に無差別的な「である」と、他のふたつと区別された「である」の落差の反復
  • メイランドによる相対主義擁護:
     相対主義の自己論駁性や自己無効性であるように見えたものは、実は批判者側の前提や偏見に由来する仮象にすぎない
  • 相対主義の基本形式:《 X'において、〈XにおいてTは真である〉〈非-XにおいてTの否定は真である〉は真である 》
    • 枠組みの外側での「X'において」には、それと対比される「非-Xにおいて」がない→対比される否定形が出現するときには「X'において」は内側へと転落する。この非対称性は無限後退しうる。
  • 相対主義とは「排中律の中で働く肯定」「外側の肯定」というふたつの肯定の緊張関係が問われる問題場面ではあっても、通常の意味での矛盾が発見されることで論駁される問題領域ではない。
    • 相対主義とその批判の間の関係が反復されつつ確認されていく場というものも重要(:三者関係)



第4章 アキレスと亀とルイス・キャロルの「三者関係」



  • ルイス・キャロルのパラドクスに登場する、アキレスと亀の議論
    • 「PならばQ」「Pである」という前提から「Qである」という結論に至る「論理的強制力」(「規則」)自体の諾否
        →規則を適用する規則についても、諾否が問題となり、無限後退に陥る
    • 無限後退そのものよりも、このようなストーリーが起動してしまうことの方にこそパラドクシカリティがある
    • 「一歩を踏み出さない」という解決は「一歩を踏み出す」ことを経由してのみ可能になる
    • 推論過程の無限後退が、語り手という外的・事実的な理由によりストップする
       :亀とアキレスの対話は単なる二者関係ではなく、その二者関係が実演されている舞台も含めた三者関係。



第5章 相対主義とその周辺



  • 相対性と絶対性
    • 相対主義は、徹底化されるならば、相対性と絶対性の単純な対立図式には収まらなくなる
  • 相対主義実在論
      • ソフトな実在論:「実在」は理念的な目標点。到達し得ないが、「現われ」や「思い」の中で理念として働いている。
      • ハードな実在論:「実在」は理念的なものとしても登場しえないほど遠い
    • パトナムによる「内在的実在論」と「形而上学実在論」の対照と、「真理」と「現われ」の距離の差異についての構図が同じ
    • 徹底化された相対主義は、ハードな実在論に漸近する [→第9章]
  • 懐疑論もハードな実在論も、「実在」と「私たちの認識」の間の距離をきわめて大きなものと見なす点で一致



第6章「枠組み」の問題



  • 翻訳の可否
    • スウォイヤー
        強い意味での相対主義:枠組み間で翻訳可能
        弱い意味での相対主義:枠組み間で翻訳が成立していない
  • デイヴィドソン『概念枠という考え方そのものについて』 ……「概念枠」という考え方の否定
    • 私たちの概念枠の非対称性:私たちは自分自身の使用している概念枠(=言語)の内側からしか概念枠を区別・比較することはできない。
    • 「私たちの枠組みとは根本的に異なる別の枠組み」というものがあるとして、それが私たちの枠組みにおいて理解不可能ならば、別の枠組みとしてすら認識しえない。一方それが理解可能ならば、根本的に異なるとは言い得ない。
      →「根本的に異なる別の枠組み」という考え方の失効。
      →私たちの概念枠は、多くの中のひとつの概念枠であるという意味を喪失。それゆえ私たちの概念枠は、そもそも「概念枠」でさえない。
      →「概念枠」という考え方自体が消失。
  • 以上のように「概念枠」という考え方は消去されるが、「私たち」における「非対称性」は残る。
    デイヴィドソンの論証プロセスによって「概念枠」が消失してしまうことを見て取ることが、「私たち」という遂行的な存在に他ならない。(自ら遂行するのでない限り、概念枠という考え方の消失過程をそもそもたどることができない。)
  • 「私たち」とは、「私たち」と「彼ら」の差異づけを更新しながら自らの存在を産出していくあり方。
    他の選択肢と対比された私たちとの落差が反復される可能性こそが、「私たち」の基本形式である。



第7章 「ない」よりもっと「ない」こと


[WE ACCEPT ⇆ we accept/don't accept] ←→ 受容自体の未発生
[ φ ⇆ {φ} ] ←→ 空集合以前 ante-φ
[「私たち」⇆「概念枠」] ←→ 「私たち」の未出現

  • 「私たち」は「未出現」のままに止まることなく、なぜかこうして反復されてしまっている。その偶然性を相対主義極限値として指し示している。--私たちは「私たち」をすでに遂行している。「私たち」は遂行的な仕方で絶対的なのである。
    そのような始まりのない反復自体がそもそも生じていない可能性を、「私たち」は肯定することも否定することもできない。



第8章 「ない」ことの連鎖



    • クオリア特有の「なさ」が、当のクオリアに構成的に働く。
      意識や主観性の問題の核心には、当の意識・主観性自体を構成するように働く「不在」「無」が位置している。



第9章 相対主義実在論の極限における一致


  • ネーゲル実在論者)
    • 実在論:世界は私たちの心からは独立している。世界は私たちの心にとって想定不可能かもしれない
    • 観念論:存在するとは、私たちが思考可能なものであること。世界が私たちの心にとって想定不可能ということはありえない
  • 「Xは想定不可能である」というケースよりも、「《Xは想定不可能である》とさえ想定不可能である」という事態
  • 「私たち」というあり方
    • 私たち1 特定の有限者 「21世紀の日本に生きている者」
    • 私たち2 任意の拡張可能な有限者 「Xとしての私たち」「Yとしての私たち」……   →ネーゲルの「私たち」
    • 私たち3 反復 X→Y→…という拡張されていく境界線の更新において反復されている「私たち」というあり方  →相対主義の極北での「私たち」
  • ネーゲルのハードな実在論をさらに過激化したもの:極限的な実在論
    私たち3は、特定のでも任意のでもない、「集合」の境界線を更新し高次の後継者を次々に産出し続ける反復運動
    :その位置はまさに、相対主義の徹底化によってたどりついた《反復する「私たち」》と同じ。















music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell