- 作者: 入不二基義
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/01/07
- メディア: 文庫
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「相対主義」と「独我論」(あとこれに「構築主義」を加えてもいい)というのは、得てして即座に否定されがちなものだけど、その否定をきちんと論理を追って成し遂げるのは実は難しい。たいていの場合そのようなプロセスを経ることなく、単に自明な批判属性として扱われている気がする。『それでは独我論になってしまう』『それでは相対主義に陥ってしまう』みたいな言われ方として。
これらへ接する態度としては、日常のなかでそれらは端的に不必要であるという言い方が無難であり充分であると思ってはいるのだけど(『それを考えなくても/考えないようにしないと社会はまわらない』)、それはそれとして、実際どうなのかというのをどこかできちんと考えておきたいと常々思っていた。「独我論」というのは〈プライベート〉に思考されるべきものだとしてもよいのだけど、「相対主義」の方は日常生活のなかでわりと登場することもなくはないので、特に。
その意味で、「相対主義」についての論考であるこの本はとても有用だ。
相対主義とはどういうものか、そして、相対主義への批判とその有効性の検討、といったところが良く整理されていて役立つ。
けれどこの本の焦点はそこにはない。全体としての内容は相対主義擁護であるとも言いがたく、一般に思われているであろう相対主義とは別のありようとしての相対主義が示されている。相対主義とは単に「考え方や観点は人それぞれ」というようなことではなくて、「非対称性が無限後退する運動」である、というのが枢要。そしてそれを徹底化するとどういう極致に到達するのか、というのが描かれる。
第2章・第3章あたりが、相対主義ってそうあっさり否定できるようなものではないよ?という内容。
第4章・第5章は、関連する議論との共通点など。
第6章は特に重要。第3章からの接続で、「私たち」というこの本の焦点へ議論を展開するポイント。
第7章・第8章・第9章は、《極限的な実在論と徹底化された相対主義は一致する》という結論への収束。
序論 「地平線と国境線」と「足の裏の影」
- 「枠組み相対主義」の主張T:《どんな真である主張や見解も、ある認識の枠組みXにおいて相対的に真であるにすぎない》
→Tは、T自体に自己適用されるのか
- 相対主義の基本形式:《 X'において、〈XにおいてTは真である〉〈非-XにおいてTの否定は真である〉は真である 》
- 枠組みの外側での「X'において」には、それと対比される「非-Xにおいて」がない→対比される否定形が出現するときには「X'において」は内側へと転落する。この非対称性は無限後退しうる。
第6章「枠組み」の問題
- デイヴィドソン『概念枠という考え方そのものについて』 ……「概念枠」という考え方の否定
- 私たちの概念枠の非対称性:私たちは自分自身の使用している概念枠(=言語)の内側からしか概念枠を区別・比較することはできない。
- 「私たちの枠組みとは根本的に異なる別の枠組み」というものがあるとして、それが私たちの枠組みにおいて理解不可能ならば、別の枠組みとしてすら認識しえない。一方それが理解可能ならば、根本的に異なるとは言い得ない。
→「根本的に異なる別の枠組み」という考え方の失効。
→私たちの概念枠は、多くの中のひとつの概念枠であるという意味を喪失。それゆえ私たちの概念枠は、そもそも「概念枠」でさえない。
→「概念枠」という考え方自体が消失。
- 以上のように「概念枠」という考え方は消去されるが、「私たち」における「非対称性」は残る。
デイヴィドソンの論証プロセスによって「概念枠」が消失してしまうことを見て取ることが、「私たち」という遂行的な存在に他ならない。(自ら遂行するのでない限り、概念枠という考え方の消失過程をそもそもたどることができない。) - 「私たち」とは、「私たち」と「彼ら」の差異づけを更新しながら自らの存在を産出していくあり方。
他の選択肢と対比された私たちとの落差が反復される可能性こそが、「私たち」の基本形式である。
第7章 「ない」よりもっと「ない」こと
[WE ACCEPT ⇆ we accept/don't accept] | ←→ 受容自体の未発生 |
[ φ ⇆ {φ} ] | ←→ 空集合以前 ante-φ |
[「私たち」⇆「概念枠」] | ←→ 「私たち」の未出現 |
- 「私たち」は「未出現」のままに止まることなく、なぜかこうして反復されてしまっている。その偶然性を相対主義は極限値として指し示している。--私たちは「私たち」をすでに遂行している。「私たち」は遂行的な仕方で絶対的なのである。
そのような始まりのない反復自体がそもそも生じていない可能性を、「私たち」は肯定することも否定することもできない。
第8章 「ない」ことの連鎖
- ネーゲル(実在論者)
- 実在論:世界は私たちの心からは独立している。世界は私たちの心にとって想定不可能かもしれない
- 観念論:存在するとは、私たちが思考可能なものであること。世界が私たちの心にとって想定不可能ということはありえない
- 「Xは想定不可能である」というケースよりも、「《Xは想定不可能である》とさえ想定不可能である」という事態
- 「私たち」というあり方
- ネーゲルのハードな実在論をさらに過激化したもの:極限的な実在論
私たち3は、特定のでも任意のでもない、「集合」の境界線を更新し高次の後継者を次々に産出し続ける反復運動
:その位置はまさに、相対主義の徹底化によってたどりついた《反復する「私たち」》と同じ。