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 ピーター・ワッツ “ブラインドサイト”



“BLINDSIGHT”
 2006
 Peter Watts
 ISBN:4488746012, ISBN:4488746020



ブラインドサイト〈上〉 (創元SF文庫)

ブラインドサイト〈上〉 (創元SF文庫)

ブラインドサイト〈下〉 (創元SF文庫)

ブラインドサイト〈下〉 (創元SF文庫)






 なんか難しかった……。
 小説の構図自体は明確。スタニスワフ・レムを思い起こさせるような、人間と極度に懸け離れた知性体とのファースト・コンタクト。違いすぎるので結局相互に理解し合うことはできない。(両者の何が違っているのか、というのがこの書の最大のテーマ。)
 この相手がもう非常に扱いづらい存在で、強磁場による幻覚とか、知覚の隙間〈ブラインドサイト〉を利用した攻撃とか。こんな相手との接触/コミュニケーションなんて、過酷すぎるミッション。もっとリソース割けなかったのか、と思うけど、一応人類がこの時点で用意できる最高のメンバーで臨んではいるらしい。(メンバー構成にも大きな特徴がある。でもそれについては特に語りたいことはないな……。)

 設定というより小説の語り方のせいではあるかもしれないけど、全体的に「今何やってるんだろう……?」っていうのがわからないところが多々あった。登場人物たちがどのような作戦をおこなっているのかの細かいところが把握できず。たぶん俺この物語あまり理解できてないと思う。
 恒星間航法もわかり難くて。「イカロス反物質流」なるものが基軸にあり、“燃料である反物質そのものを送り出すんじゃなく、反物質の量子状態の情報を転送するだけ”――というなんだかおもしろそうな雰囲気を発してる設定で、これだけでも充分堪能はできるんだけど……他の人に説明できるかっていうとまったく自信ない。反物質流がどこからどこへどのように流れてるのっていうのとかが。)

 ただ、本題のテーマははっきりしてるし、ファースト・コンタクトそのものの雰囲気も良いと思う。コンタクトの過程で想像を絶する体験をするっていう一連の描写には、ル・グウィンの短編『視野』のような緊迫した臨場感があった。




 テーマ周辺に関する雑考

 意識をテーマとして扱ったSF。このテーマ、最近のSFではよく見かける。
 そのなかでも、先鋭的な方向はふたつに大別できるように思う。
 ひとつはデネット的な「意識は錯覚だ」派のSF。心身問題の議論動向ではどうも「錯覚」派に分がある状況に見えるとは思ってるんだけど、SFでも、イーガン筆頭にこの立場に拠る作家が多いように思う。『ブラインドサイト』でのピーター・ワッツもここに入るはず。
 もうひとつは「言語」に着目したSF。「意識」「自我」には言語が重要な役割を果たしている――というか心身問題は言語の問題に他ならない、という立場。SFにおけるこの系統の代表は言うまでもなく神林長平。あとは、ブラインドサイトで日本版特別解説書いてるテッド・チャンももしかしたらそういう側面はあるかも。(この解説読んでそう思ったというより、『あなたの人生の物語』をあらためて読んでみてそう思った。)
 SFとしてはどちらの方向もおもしろいと思ってるんだけど、どちらに対しても少し不満なのは、現実の哲学論議をわりとふつうになぞってるだけな感じで、SF……というかフィクションとして先を行く提示がないように思えるところ。もっと大風呂敷でハッタリきかせてもいいと思うので。(その意味ではむしろ舞城王太郎のやっていることの方が良いと思う。)


 自分としては、心身哲学という問題――すなわち「意識」とか「自我」とかをめぐる混乱は、それを記述する方法の混乱、だと思うようになってきている。
 「意識は錯覚だ」っていう主張に関しては、この主張の根拠として示される諸々の科学的事実は理解できるし、「錯覚」ということばで言わんとしてることはわかるんだけども、でも結論について……というより、主張の仕方について同意できないものがある。つまり「錯覚」という言い方をしたら、錯覚を感じている主体ってのが前提されてしまうと思うんだけども、それの説明がされてないよね?っていうところ。「意識とは何か」という問いがあるとき、解明すべきその対象がまず何を指しているのか、「科学的に」まず定義できていない、という問題。かといって「クオリア」というものを持ち出す主張についても、それはそれで何の説明にもなってないな、って思うし。
 これらはどっちかというとむしろ「記述」の問題であって、適切な記述方法がまだ発明されてないことに起因してる、というように考えている。


 記述の問題。
 それは言語の限界の問題と言うこともできる。
 とすると、「だったら言語を拡張したらどうなるだろう?」っていう考え方だって出てきてもいいと思う。
 でも別にエスペラントみたいな人工言語っていうのではなくて。人工言語として最強のものは人類は既に手にしている。数学。数学は自然科学の道具として発展した。でもそれは哲学マターに対しても最適な道具と言えるだろうか? たぶんそうではない。
 哲学思考に特化した構造の言語を人工的につくれないだろうか?
 ……っていう考え方がSFとしてはあり得るんじゃないかなと思う。(それはサイエンス・フィクションではなくフィロソフィカル・フィクションかもしれない。)
 永井均なんかがまさに心身問題のひとつの結論を「言語の限界」としているわけだけど、永井としては、それは言語の「原理的な」限界という感じなんだよね。だから、ほんとうは単にもっとすぐれた言語をつくれば解決、というわけではなさそう。
 とはいうものの/だからこそ、SFとしては(というかフィロソフィカル・フィクションとしては)そういうのを踏まえた上でのより高度な人工言語、っていうフィクションもあってもいいんじゃないかな、と。
 テッド・チャンの『理解』という作品はそういう意味で惜しい感じがあって、ああいう「超人類」なら心身問題に完全な決着をつけ「意識」だとか「自我」だとかの概念をきちんと整理することができる気がするんだけど、あの短編はそういう方向には行っていない。まあ書いている作者自身は超人類ではなく当然のことながら従来の人類に属してるんだからしょうがないけれども……。とはいえ作者が心身問題の「答」そのものを提示することはできなくても、「心身問題を解決した存在はその後どのように行動しどのような思索を披露するのか」ということは描けるような気がするんだよね。
 あるいは、超人類じゃなくても、たとえば異星知性体で既にそうした言語を所持している存在がいて、そういう相手とのファースト・コンタクト、っていうのがあってもおもしろいと思う。この『ブラインドサイト』とは真逆みたいになるけれども。
 なんか最近「意識は錯覚」系の作品が多いような気もしてるので、そろそろ違うパターンで自我問題を語るSFが出てきてもいいのになー、という感想。
 ちなみにピーター・ワッツの短編『天使』は無人戦闘機が自由意志を獲得する過程の話なんだけど、こっちは留保なしですごく好き。
 (see. http://d.hatena.ne.jp/LJU/20110708/p1













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―Angela Mitchell