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 森田季節 “カケルの世界”







 短編。SFマガジン2014年2月号収載。
 ページの上下二段に分かれて別々の文章が続くという構成が大きな特徴。上段と下段は相関しているけど、上段だけ読み終わった時点ではまだ関係を理解できず、下段を読むとようやく全体のつくりが把握できる。
 百合テイストな学園ものの雰囲気で始まり、ミステリーへ向かうと見せて、いきなり厨二的ファンタジーに変容、スプラッター要素も入ってきたり。SFとしてまとめられてはいるけど、最終的にはメタフィクショナル。上段は下段から一方的に参照されていると思いきや、逆の関係もあって。
 小説としての仕掛けとストーリーテリングの両面で好み。



(以下、核心部に触れた内容)

  • プレイヤーの選択に応じて展開をまとめストーリーとして記述するゲーム。カケル というノン・プレーヤー・キャラクターNPCがゲームの攻略目標とされている。
  • 翔は “人間と区別つかないゲーム内人格” なのだと表されているけど、春奈を初めとするプレーヤー・キャラクターたちだって、直接操作される存在ではなくシンプルな行動指針に基づき自動的に記述・表現されるテキスト内存在であり、その意味では翔と変わらないような気もする。(翔に人格があると言うならば、他のキャラクターたちにも、プレイヤーと独立した人格があると言えるのではないか。)
    • 下段では「NPCは自分がごくふつうの人間であると認識しているらしいのだ」「今も、画面の中の綱島翔というキャラはゲーム内のテキストで示された風を実際に吹いているものとして感じているらしい」……と書かれているが、上段のプレーヤー・キャラクターにはこうしたことは当てはまらないのだろうか? ・・・(*1)
    • というか、これらは小説として活字で記述されたキャラクター一般に当てはまることのような気がする。プログラムに自動生成されたものであろうと人間の作家が原稿として書いたものであろうと、テキストとして言表されているという点では何も違いがないのだし。 ・・・(*2)
  • テキストとして記述・表現されているキャラクターに対して「人格がある/ない」という問いが投げ掛けられていることがよくわからなくもある。
    真に人工知性と言えるのはテキスト内キャラクターよりもむしろ上段のテキストを記述している〈ニジイロの世界〉というゲーム・プログラムではないのだろうか。コミュニケーションが成立していたのは榛名と翔との間ではなく榛名と〈ニジイロの世界〉との間とは言えないのか。
    • とはいえそういう区別が妥当なものなのかどうか。
      プログラムに記述される翔というキャラクターと、それを記述しているプログラム。人格なるものがあるとして、どちらに帰属させるべきものなのか。
    • そもそも人格というものの有無を問うことにどのような意味があるのだろうか。
    • 翔と他のプレイヤー・キャラクターに違いがあるとすれば、翔は自分自身の存在について思考するけど他はそうではない、ということかもしれない。だから翔には人格があると言い得る、と。
      もしそうだとしたらその場合は、「自己認識」の有無が問題となっている。
    • 〈ニジイロの世界〉というこのゲームは大掛かりなチューリング・テストであると言えるだろうか。
  • この小説では「人格」「自我」「自己認識」という概念が区別なく用いられている節がある。
    • この小説のなかで「人格」という語はどのように用いられているか。

      • 仮に人格があるとしても、実在しない人間じゃん。
      • 違う人格を楽しんだところで、自分の体も自我も別物になるわけではない。
      • ゲーム内の人格だよ。それが現実の人格と同じものかどうかも証明されてないし。
      • 椅子に座ってヘッドフォンをつけて目の前のモニターを見ていれば、設定されている人格になりきることができる。
      • つまり、人間が人間的に考えられるのは、この人間としての体を持っているからなの。体と別に作られた自我が人間の体に入ることはないわよ。
      • たしかに、生命と関係ない要素だけで人工知能も人格も作ることができる。でも、それは身体を持っている生き物には、移し変えられない。
      • 副部長に人格がないことも知っています。
      • 人格は生命活動に必須のものではない。身体の発生と同時に人格は生まれるが、その人格が仮に別種のものになっても、生存に不都合はない。
      • 別の人格をなぞるのが楽しいと飛鳥は言った。

    • 「人格」という概念は一般的に必ずしも「自我」「自己認識」を意味するわけではなく、他者から見たときの単なる指示対象(アイデンティフィケーション)・コミュニケーション上での宛名、という側面もある。
    • おそらくこの小説で「人格」という言葉を用いて言わんとしているのは、「自我」「自己認識」の意味の方。
    • 「自我」と「自己認識」も必ずしも同一の概念ではないのだろうけれども……。
  • (*1)における「自分がごくふつうの人間であると認識しているらしいのだ」「今も、画面の中の綱島翔というキャラはゲーム内のテキストで示された風を実際に吹いているものとして感じているらしい」という事柄は、少なくとも下段のキャラクターであるところの榛名に対しては当てはまっているはず。(この小説を読む読者からはそう見える。下段の登場人物たちにとって翔がそう見えるように。)
    だとすると、(*1)の論理で言えば榛名は人格を備えているということになる。
  • 「榛名にとっての翔」は、「この小説を読む読者にとっての榛名」と同じ関係。
    →ここで(*2)がつながってくる。この小説のメタフィクショナルな図式は、読者に対しても投映されてくる。
  • ところで、「きみは現実ではない仮想世界内の存在にすぎないんだよ」と言われたキャラクターは、果たして簡単にそれを信じ込むものなのだろうか。
    • これは、『いまが夢じゃないって証拠はあるか』問題。
    • あるいは、『何が客観的現実なのかについて食い違いが生じたときにそれが解決されることが可能なのか』問題。
    • イーガンの短編『クリスタルの夜』では、被造物側キャラクターはその仮想世界の物理法則にそぐわない超常事象を起こされたことでそれを信じた。しかしそうした手法が常に使用可能なわけではない。
  • なんとなく下段の方が上段を支配する位置にあるかのように思ってしまうけど、読者の視点からすると必ずしもそうでなければならない理由はなく、だからこそ最後に上段と下段は等価なものとしてレベルの統一が可能となる。










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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell