- 作者: 前田泰樹
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2008/12/01
- メディア: 単行本
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いわゆる心身問題(心の哲学)のフィールドには、一方に “心だとか意識だとかいったものはすべて身体機能(脳etc)で説明が尽くせる幻にすぎない” という機能主義の立場があり、もう一方にはそれ以外、二元論や随伴現象説やその他の “機能主義に還元されたくない” と考える立場があって、概ねこの二者の対立で議論が進行してきたように思える。
ところで、社会学の一領域であるところのウィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーも心身問題に関連する思考をいろいろおこなっている。上述の二者のどちらとも異なり微妙に折り合わないような第三者的な位置にあるようにも見えるのだけど、両者が取りこぼしているような角度からアプローチしていて、繰り広げられている議論の前提を整理するような問題提起をおこなっていると読むこともできる。
すなわち、
・「心」があるとかないとかを非常に抽象的な水準で議論してるけど、でも「心」って日常の生活のなかで実際どのような意味で運用されてるもの?
・で、日常での使用と切り離してそういう概念を語ることができるのかな?
……というような。
この書の立場においては、“他人の「心」を知ることはできない” というような主張自体は否定されていない。
でも、その “他我に接近する際の困難” とか言われているものは実際にはどういう意味を持つのか。また、その困難というのは日常のコミュニケーションのなかで実際にどういうとき生じている/生じていないものなのか。
……などといったことが医療現場の会話分析を通じて考察されている。
この書は “心は私秘的で近付き得ないもの” という考え方には与していないけれど(2章)、一方で、“心はすべて身体機能に還元できる” という考え方を肯定しているというわけでもない(6章)。
“心に関わる概念を厳密に定義して、それに統一的な説明を与える” という方向性は採らず、「心」という概念にまつわる論理文法の分析と、概念が用いられている実践の記述をおこなっている。
論争の主要な部分が概念のいろいろな混乱のために生じているように見えるフィールドで、そうした概念が使われている用法を整理し見通しよくしようとしている試み、という意味で、ハッキングの『何が社会的に構成されるのか』に似ているところがある。
- 関連メモ
- 青山拓央『分析哲学講義』 p28-30
- 酒井泰斗・浦野茂・前田泰樹 編『概念分析の社会学』はじめに および ナビゲーション〈1〉
- 「専門的概念」と「常識的概念」
- 私たちが日常で経験している事柄が、科学によると実はその通りではなくダミーにすぎないものだったのだなどと聞かされたり、そう思いこんでしまうという、「中傷効果」。(ライル)
- しかし「曖昧な常識的概念」と「正確な専門的概念」といった対比がそもそも意味をなすのは、常識的概念および専門的概念とは独立な所与の対象が存在し、両者がともにそれを記述しようというかぎりにおいてだが、そのような構図は成立していない。
科学的概念がどれほど高度な専門性を帯びたものであっても、それが人間の経験や行為を対象とするものである限り、私たちの日常において用いられる常識的概念と何らかの結びつきをもっている。そもそも専門的概念を用いることができるためにはまず常識的概念を用いることができなければならない。常識的概念に依拠しないかぎり、人間についての専門的知識はその対象を手にすることすらできないはず。
- 「専門的概念」と「常識的概念」
1章 行為記述の理解可能性
キーワード:「理解」「記述」
- 行為をどのように理解するか、行為を理解する際にどのように難しさが伴うか、といったことは、何も社会学者たちにとってだけでなく、実践においても広く問題となることである。
- どのように記述するべきか、ということ自体が私たちの実践の争点になることがある。
だから、デュルケームが『自殺論』において「定義」から出発しようとしたのに対し、サックスはまったく違うアプローチを試みた。;- “私たちが主題として取り上げたものは、それがなんであれ記述されなければならない。なんであれ、それ自身がすでに記述されているのでなければ、私たちの記述装置の一部となることはありえない。[…] そのカテゴリーは、社会学的装置の一部となる可能性すらないのである”(サックス)
- 社会学における、記述の不完全性をめぐる懐疑論
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- “行為の意味はその本人にしかわからないはずだ” という懐疑論的な発想。 → “だからむしろ観察者の側がどのような関心に基づいて記述しているのかが重要だ” → 観察者の側の行為理論の問題へと位置付けられていくことに。
- 同じ出来事を経験しているはずなのに、それを言語によって記述しようとすると、複数のさまざまな記述ができてしまう。
- エトセトラ問題:具体的対象についてのいかなる記述も、その対象に備わった特性の何らかの未確定な集合を無視しているので、調査者がその記述を終了させるにはエトセトラ条項を無限に付け加えていかなければならないのではないか、という懐疑。
- 従前の社会学:“記述が不完全であらざるを得ないからこそ、社会学者は自らの原理に基づいて一般化をおこなわなくてはならない” という懐疑論的主張。→この主張の問題:どのような記述も一般化された記述と読むことができてしまう。だとすれば、そのような記述によって何が得られるかまったく曖昧だ。
- これに対するエスノメソドロジーの主張:記述がどのような規則のもとで為され、他の記述とどのような関係にあるのか、概念の結び付きを分析するアプローチを採るべきだ。
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- エスノメソドロジーによる考え方
- 私たちは、互いの行為を記述したり、何らかの記述のもので相手や自分の行為を理解していることを示したりしながら、生活している。
- 実践において用いられている知識は、公的な基準に基づいて適切/不適切を区別できるような仕方で用いられている。
行為の理解や記述それ自体もひとつの活動として適切/不適切が問題化される実践であったりする。 - 行為(意図)の理解は、行為の記述と独立ではない。
- 行為を理解するということは、記述のもとで理解するということ。私たちは不断に互いの行為を記述することによって生活している。
相手の行為であれ、自分の行為であれ、それが理解可能である場合には、既に、一つのありうる記述のもとで理解しているのである。
またそれは、他の記述とどのような関係にあるのかということも理解可能でなければならない。つまり、私たちは、記述それ自体が備えている分析可能な秩序も同時に入手しているのでなければならない(そうでなければ、その記述は、相手にとっても自分にとっても理解できないはずだ)。このことは、記述される経験が入手可能であることに、論理的に先行している。
- 行為を理解するということは、記述のもとで理解するということ。私たちは不断に互いの行為を記述することによって生活している。
- 規範的効力のもとでの理解可能性
- このような理解可能性のもとでこそ、行為の理解における誤りや食い違いを誤りや食い違いとして理解することができる。
- 記述は、それ自体ひとつの活動として実践の連関のなかに埋め込まれており、その実践それ自体を編成している。
そのような記述が埋め込まれた実践における概念や活動の連関その自体を記述することこそ、まずなされるべきだ。
2章 私的経験の理解可能性
キーワード:「文法」
- 「痛み」は「私的な」経験の例として扱われることが多い。
- 私の「心」のなかにある「痛み」は私自身には知ることができるが、他人からは知ることができない私秘的なものなのだ、という考え方。
- こうした考え方は、「実践上の問題」を「理論上の問題」として扱ってしまっている。
- しかし、そもそも当人しか理解できないことなら、他人が理解できないことが問題になるはずがない。
日常の実践においてうまく理解できる場合があったり、理解できない場合があったりするからこそ、「理解できない」ことが問題になるはずだ。
- 「個人を単位とする存在論」を前提とせずともわたしたちの実践は理解可能である。
- 感覚与件とそこからの推論を軸とする内観モデルは、心の私秘性を出発点として自明視するが、かえってそのことのゆえに、経験を私的なものとして扱う実践を記述することができない。
- エスノメソドロジーのアプローチが持つ意義
- 「人の心はわからないのだから」というふうに問いをたててしまう立論から距離をとる道を示している。
- 一方で、対称性を理想とするような他者理解の一般モデルからも距離をとることができる。(診療場面における非対称性のなかで、「私的な経験のかけがえのなさ」を損なわずに為される実践)
- 「類推」(「立場の交換可能性の仮定」)や「内観モデル」によって生じる困難
- 他人の身体の傷などを見て、他人が痛みを感じていることを想像したとしても、それは「私の痛み」でしかあり得ない(他人の痛みなるものはどこまでいっても私の痛みでしかない)。
- そういう意味で、「他人の痛み」という概念と「知っている」あるいは「知らない」という述語の結びつきは成り立たず、「痛み」という概念を用いておこなわれる言語ゲームの外へ排除される。 → だから、「他人の痛み」を(比喩的にでなく)実際に「感じる」ことができたり/できなかったりといったことが経験的に問題になることもない。
- この文法的結び付きは、将来の経験的事実の発見によって覆され得るものではない。
- “心は私秘的なものである” ならば、他人の痛みを知っている場合も知らない場合もなく等しく近付き得ないだけなのだから、“他人の痛みを知っている” “他人の痛みを知らない” という記述は端的に「意味を為さない」。
知っている場合と知らない場合の両方の可能性があり得るときにのみ、「知っている/知らない」ということが問題化され得る。 - 「文法」… 経験的な事実をそれとして理解可能なものにするための述語(概念)の結び付き (cf. ウィトゲンシュタイン)
- “心は私秘的なものである” ならば、他人の痛みを知っている場合も知らない場合もなく等しく近付き得ないだけなのだから、“他人の痛みを知っている” “他人の痛みを知らない” という記述は端的に「意味を為さない」。
- だとすればわたしたちはどのように他人の痛みを理解しているのだろうか。
- この問いは、経験的な事実の発見の結果として答えられる問いではなく、経験的な事実をそれとして理解可能なものにするための「文法」(概念の結び付き)についての問い。
- “人は他人の痛みを知ることができる” “人は他人の痛みを感じることができない” という命題は、それ自身が前提となって “痛みを隠している” “痛いふりをしている” といった他の推論を可能にするような、文法的命題である。(そのときにこそ、経験的な困難(問題)が生じ得る。)
- 「痛みの振る舞い」という公的な基準に基づいて “私は他人の痛みを知ることができている” と言うことに文法上意味がある、と約定されているかぎりにおいて、「痛み」という概念が言語ゲームに導入され、そのあとに、痛みを我慢することや、痛いふりをしているのか、などについて語ることが意味を持つようになる。
- 私たちが「文法」をかろうじて特定し得るのは、もっともな使用と文脈が実際に生じる機会を見ることによってである。(クルター)
「文法」は、使用と文脈が実際に生ずる機会に対して偶然的に特定されるものであるけれども、経験的事例の探求に論理的に先行するものとして見出される。
- 「痛み」が何か私秘的な対象として「心」のなかにあると考える必要はない。
しかしだからといって「痛み」に関わる一人称的主張の強さが格下げされることもない。
「痛み」というのは事実として、他の誰でもない「私」に強く結びついている。
↓
では、「痛み」に関わる一人称的な結びつきの強さは、どのような文法的位置(概念の結び付き)において理解できるだろうか。- ここで問題にしたいのは、
まさにどのような「経験」が、どのように他ならぬ「私」(あるいは私ではない「他人」)に結びついているか。
さらに、
どのような文法的結びつきが、どのような他の推論を可能にしているのか。 - こういったことは、実践の問題である。
- ここで問題にしたいのは、
- 「痛み」が「私」に帰属されていく実践
- “私の経験はかけがえのないものだ” という印象は、互いに感覚を帰属させあう実践の問題として記述される。
- 私たちは、石や機械を慰めたり叱ったりすることは(比喩的な場合を除いて)あまりしない。同時に、子どもの部位としての身体の場所(たとえば、すりむいた膝小僧)だけを慰めることもしないだろう。私たちは、「痛み」の場所をその身体のうちに含んでいるその「子ども」を慰めるのであり、それが感覚言語の文法に沿った私たちの「生活形式」(cf. ウィトゲンシュタイン)なのである。