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監督 : なかむらたかし, マイケル・アリアス
原作:伊藤計劃
2015
原作は「文字・テキストであること」に大きな意味がある作品だった。
アニメ映画版はどうだったか。
コンタクトレンズの拡張現実映像がそのまま表現できるとか、「突発的自傷行動」の主観映像記録、あるいは緊急報道番組とAI検閲のテロップといったところには映像化の意義があったと思う。
もっとも、それは映像化すればふつうに達成できることではある。何か原作以上の驚異が得られたかというとそうではなかったな、というのがさしあたりの評価。
以下、その他雑多な感想。
- 都市や建築物、交通機関や兵器といった世界描写は良かった。
- 大絶賛というほどではなくて、妥当、という感じ。
- 建築物については、アウトラインは良いんだけど作画ディテールが平坦なのが物足りなかった。ロケハンベースで描かれたと思われるバグダッドの旧市街は雰囲気出てて良かったんだけど。(街並と電線のあたり)
- スタッフロール見てたら、「世界観設定:内藤廣建築設計事務所」と出てきて。あ、この都市デザイン、内藤廣なんだー、ってちょっとびっくりした*1。どちらかというと保守的デザインする人のイメージがあるしアニメに関わるようなタイプじゃないと思ってたけど、そういえば早くから 3D-CAM のデザインなんかを実践してきた人でもあるし、意外と新奇な試みが好きなんだなー、っていうのをあらためて思わされた。
- 都市デザイン自体は違和感なかったんだけど、単一の建築事務所がおこなっているためか、多様性のあるデザインという感じはしない。
もっともこれは、「生命主義」が支配的に浸透した社会を示すという意味では納得できる。
全体に人の数が少ない感じで景色が平板な印象なのも、「何もかもが清潔な社会」という設定に即してはいる。 - PassengerBird は、原作読んでると外観があまりしっくりこないイメージだったけど、アニメ版ではなるほどといった感じがあった。
機内描写の方は、原作が労力を割いていたほどには手を掛けていなかったかも。
- 色の使い方が良くできていたと思う。
- 都市景観が全体的に淡いピンク色を基調としているのは原作のイメージ通り。(原作の表記だと “限りなく白に近い穏やかなピンク、ブルー、そしてグリーンの建築群” ではあるが、アニメ版はピンク一色に絞られている。)
- ピンクと深紅。このふたつは本来は同系色であるけれども、映画表現の意味合いとしてはっきりとした区別をもって描かれている。
ピンクは生命主義社会全般を象徴する色。
一方、深紅は、喉から噴出し清潔な内装を染め上げる色としてピンク色と対比される。色相は近接しているのに、ピンクとははっきり異なるイレギュラーな事態として認知される。血そのものの色であり、つまり生命の色。にもかかわらず、生命主義社会でそれがありのままに表出することは抑制されているという点で特異。ピンクと深紅の色としての微少な差異のなかに、意味としての巨大なギャップが横たわっている。
あるいは螺旋監察官のコートに用いられる色。学生時代の制服に用いられていたアクセントカラー。バグダッド、生命主義管理体制外の民家屋上で干される絨毯の色。そして、主人公の髪の色。視覚要素として重要なものには深紅が配色されている。一方、ミァハの色は青と白。
- アニメ作品としてどうだったかというと。
- そんなに目を瞠るようなところはない。作画や演出でとてもすばらしいというところはなく、さりとて我慢できないほどのレベルでもなく。
- 原作読まずに映画単体で観たとしてもおもしろいものかというと、そうではないかも。
- カメラワークが全体としていまひとつ効果的ではない感じ。意図がよくわからない、というか。とりあえず3Dでいろいろ廻してるだけというのが。
- この原作、小説として読んだときは全然気にならないんだけど、アニメとして見ると「華のあるシーン」が少ないプロットだよなぁ…。アクションシーンはニジェールとバグダッドで少しだけ、あとはほとんど会話……というか説明台詞が主体。
その分、世界描写が重要で、これに関してはアニメ版はある程度成功しているとは思ったけれども。 - キャラクターデザインはとても良いと思う。
- テーマについて。
- 「意識がある/ない」というトピックについては概ね原作の感想で書いたことに付け加えるものはなく(→ http://d.hatena.ne.jp/LJU/20090104)、自分が言いたいこととしては基本的に次の二点だけ。
- このトピックの議論は、使用されている概念がきちんと整理区分されてないと話にならない。
- 「意識がある/ない」を外部から確認できるのか。(実験後に「何も覚えていない」というのは意識の有無の証明にはなっていない)
- ……ただ、小説としてはそんな哲学的に厳密な議論はもちろん必要なくて、『ハーモニー』がそうした思考上の「粗さ」を残したまま同時に小説上の「鋭さ」を獲得できていることは、完全に両立する話。
- 原作は、「etmlで書かれた遡行的な主観記録」を「一人称文体で書かれた小説」として読むというもの。
原作が提起する「etmlという記述形式は〈感情〉あるいは〈主観〉〈意識〉といったものを表現することができるのか」という問いは、「小説(文学)が〈感情〉〈主観〉〈意識〉といったものを表現できるのか」という問いと重なってくる。 - であるからこそ原作におけるetml言語の描写は秀逸だったのだけれども、アニメでのetml描写はそういう、表現としての先鋭性を備えてはいない。あれはもっと徹底的に簡素で無機質にした方が良かったように思う。そこも惜しいと思った点。
- というかアニメならではの「意識の消失」の表現に挑戦してもよかったのでは……。アニメは主観映像という表現が可能なのだから。
原作は「意識」それ自体よりもむしろ「記述」ということがテーマだったはずなので、アニメ化にあたっては、媒体による表現方法の違いへ意識的に取り組まれてしかるべきだったと思う。
- 「意識がある/ない」というトピックについては概ね原作の感想で書いたことに付け加えるものはなく(→ http://d.hatena.ne.jp/LJU/20090104)、自分が言いたいこととしては基本的に次の二点だけ。
- トァンとミァハの最後の会話については……。
エンターテイメント映画としてはこういう改変もあっていいかな、とは思わなくもないのだけど――。
やっぱり原作の方があきらかに深い意味を持っているよなぁ…。