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 佐藤雅晴 “東京尾行” 2016.01.23. - 2016.05.08.







ハラドキュメンツ 10 佐藤雅晴―東京尾行
Hara Documents 10 Masaharu Sato: Tokyo Trace
 原美術館







 アニメーション技法でつくられたアート。
 本展覧会の中心となる作品は、実写を手書きでトレースして制作した “Calling” と、実写映像の一部分を局所的にアニメーションへ置き換えた “東京尾行” のふたつ。
 アニメーションといっても画面要素のほとんどは静止画で、可動部分はごくわずか、映像としては静かで地味。それなのに鑑賞者の関心を捉えて放さない魅力があった。


 “Calling” の方には、電話が着信を受けて鳴り出すという共通点があり、これが見る者を引き込む機能として作用する。
 画面に映るのは無人の状況。そのどこかに携帯だったり固定電話だったりあるいは高速道路の非常電話だったりと、必ず何かしらの電話があって、しばらく見ていると着信を受けて鳴り出す。この繰り返し。
 シーンが変わると、あたかも間違い探しのようにまず電話を見つけ出そうという気に誘われ、次にはそれが鳴り出すのを待ち受ける、といった具合で、自然に予期と期待が形成される構造がある。ずっとパターンが同じだけど、ぜんぜん飽きることがない。
 基本的には静止する背景および電話の着信音·画面表示という要素だけで構成されているんだけど、淡い靄や舞い散る桜、あるいは雨といった控えめな動的要素·音源要素を含んだシーンもあって、電話の着信という主要事象を際立たせる効果を与えている。

 もう一方の “東京尾行” の方では、そうした共通の出来事はフィーチャーされていない。代わりに同じような機能として働くのが、実写とアニメのはっきりした対比描写。
 画面は基本的に実写映像で、そのなかの何らかの動的要素が部分的にトゥーンシェーディングされたかのようにアニメ絵で上書きされている……というのが “東京尾行” における共通事項。たとえば画面内の人々のうち特定のひとりだったり、建設現場の重機だったり。これも “calling” における電話と同様、シーンが変わるたびに次は何がアニメ化されて登場するのだろうと鑑賞者が探したくなる要素として働く。アニメ化されたオブジェクトは、花瓶に活けられた花のように静止したものであっても、わずかな空気の流れを受け極めて微少に震えていたりする。


 一般にアニメという表現形式が実写ともっとも異なっている点は、制作者の完全なコントロールのもとに映像を構築できること。もちろん実写映画も、カメラアングルや俳優の演技、演出といったもので映像をコントロールしているけれど、そこにはどうしても制御できない要素が残る。背後の風景に映り込む異物や、俳優が抑制できない筋肉の動き、など。一方アニメの場合は、アングルや人物の表情、動き、光や色彩といったすべてを、ゼロから自由に形成することが可能だ。逆に言えばそこには図像構築としての計画性や動機の貫徹が要求されるわけでもある。線一本を引くのにも明確な意志が不可欠であり、画面のどこにどう引くのかという方針が必要なのだから。
 本作品のように実写の全体あるいは一部をトレースしてつくられたアニメは、「絵コンテ」や「原画」といったものを持ち得ない。そうしたものを持たず、それでいながら尚、アニメが表現形式として持つ性質だけは備えている。省略された境界·輪郭、減じられた陰影階調、そしていわゆる「アニメ絵」が纏うさまざまな含意、など。
 本作品がおこなっているのはゼロからの構築ではなくて、むしろ現実の改変・読み替えといったようなこと。本作品における意志や計画といったものは、描画それ自体にではなく、現実をいかに置き換えるかというその点に対して向けられている。これはアニメ一般とこのアート作品との大きな違いだ。




その他のメモ

  • “Calling”
    • メッセージとその未着。「伝達がされないこと」自体が作品というメッセージとして機能する。
    • ドイツ編と日本編がスクリーンを切り替えて上映される。
  • “東京尾行”
    • 並列された二画面。画面切替のタイミングが同期することで対照関係を備えている。
    • 自動ピアノによるBGM。
  • また、二作品に共通することとして、ポリティカルでコントロバーシャルなシンボリック・オブジェクトがいくつか題材に選ばれている点が挙げられる。
    いずれも明らかなメッセージは読み取れないが、カラオケでのナショナル・アンセムについては、それなりに批評性が感じられないこともない。
    あるいは、明確なスタンスが示されていないということそれ自体が既にしてひとつのスタンスを示すと読み取ることができるかもしれない。



引用

これまでと異なるのは、本作でトレースされているのが実写映像の一部分であること。部分的にアニメーションとなること で、全体がそうであった時には意識されなかったこと――アニメーションの層の下に実写の層が存在し、映像が虚実一 体であること――が明らかにされています。しかも、虚であるはずのアニメーション部分には、実とは別の魂(アニマ)が 宿り、実よりもリアルであるかのように見え、我々が目にするものの虚実の曖昧さを問いかけながら、虚の可能性も示します。
プレスリリースhttp://www.haramuseum.or.jp/jp/common/pressrelease/pdf/hara/jp_hara_MasaharuSato_151224.pdf

佐藤の友人でグラフィックデザイナーの杉原洲志は、彼のトレースを「尾行のようだ」と表現しています。佐藤はこの言葉で、これまで自分がトレースに拠ってきた理由に気付いたといいます。尾行とは、相手に気付かれることなく後をつけること、ですが、相手の時間・空間・意思を一時共有することであると同時に自身の時間・空間・意思を相手に委ねる行為でもあります。つまり佐藤にとってトレースとは、対象を自身の中に取り込む行為であるとともに、自身の主体性から解放される行為でもありました。これにより、長年距離を置いていた“描くこと”に抵抗なく回帰することができ、作品制作に戻ってくることができたのです。
本展詳細ページ http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/kcfx2nj7uzpyv8gevzty/

いわゆる商業アニメーションには、メッセージやコンセプト、テーマがあり、それに対していろいろな要素を加味して、見る人がそこにたどり着くように作られています。ですが、アート作品は、アーティスト個人から色々な人に向けて発信するものなので、商業アニメーションのように一つの方向性に縛られるように制作してしまうと 広がりがなく、非常に狭いものになってしまうと思っています。そのため、作品の中では、色々な解釈出来るように、理屈では判断できないような感じを意識して編集しています。 その方が、見る人も面白いし、感じてくれるのではないかと思っています。
バインド・ドライブ 佐藤雅晴 ―DEPARTURE http://dep-art-ure.jp/?p=919

――作品はループしています。始まりと終わりを作らない理由はありますか?
この作品は、映像作品ですが、絵画のように存在することを想定しています。絵画は、展覧会の展示室などで、鑑賞者を待ってくれています。でも、映画の場合は、開演時間に合わせて観客が席に座り、幕が開き、映像が始まります。いわば、観客が凄く受身な状況で作品鑑賞が始まることになります。映画や映像作品で起承転結のあるものは、鑑賞時間や環境に制約が発生します。でも絵画は、空間においてあれば、いつでも鑑賞可能で、そのタイミングは観客任せなので、対象として自立している存在だと思います。だからこそ、絵画はこれだけ長い歴史を生き抜いてきているのではないでしょうか。そういった意味で、映像というものを絵画のように提示すると方法として、 ループを選んでいます。ループで成立する映像を作ることを前提に、いろいろなテーマを絡めながら創作しています。
バインド・ドライブ 佐藤雅晴 ―DEPARTURE http://dep-art-ure.jp/?p=919










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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell