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 山本貴光, 吉川浩満 “脳がわかれば心がわかるか”










 脳がわかれば心がわかるか。このような題名であるからには、要するに「脳がわかっても心はわからない」と言わんとしていることになるが、だからといって必ずしも反-唯物論的主張に終始する本であるというわけではない。ギルバート・ライルが第1章冒頭で言及され、その後も随所で触れられていることに表れているとおり、自然科学の記述が持つ特徴およびその射程はどのようなものかという点を意識して書かれている。標題が何か批判を含んだものであるとすればその対象は心身問題における唯物論的立場自体ではなく、むしろ、科学的概念が常に日常的概念に優越するのだと考えてしまうあり方に対してであろう。

 概要は本文中で次のように記されている。


「心と脳の関係を考えるためには脳科学だけでは足りず、なんらかの哲学が必要とならざるをえないが、さりとて哲学によって問題が解決されるわけでもなく、なにが問題となっているかを現実の社会的条件において考える必要がある」


 全体の構成は以下のとおり。

  • 第1章 脳情報のトリック──カテゴリー・ミステイクとパラドックス
    • 脳心因果説と脳還元主義の問題
  • 第2章 心脳問題の見取図──ジレンマと四つの立場
    • 心脳問題のハード・プロブレムに対する四つの立場:「唯物論」「唯心論」「二元論」「同一説」
  • 第3章 心脳問題の核心──アンチノミーと回帰する疑似問題
    • カントの第3アンチノミー(世界は自然法則に還元できず自由が存在する/還元できるので自由は存在しない)
  • 第4章 心脳問題と社会──社会と科学、そして生
    • 規律型権力社会からコントロール型権力社会へ移行したときに脳科学が果たす寄与
  • 終章 持続と生──生成する世界へ
  • 補章 心脳問題のその後

 なお、この書は2004年に刊行された『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』の増補改訂版。



  • メモ
    • 心身問題の議論では、「[A] は幻想/錯覚にすぎず、実は [B] なのだ」「[A] はそんなたいしたものではなく/絶対的なものではなく、実は [B] にすぎない」という言い方がよく出てくる。[A] には意識/自我/精神/心/クオリアといった語が入り、[B] には脳科学の成果がいろいろ入り得るわけだが、いずれにしてもこの「実は……にすぎない」という文法構造がひとつの共通作法のように頻出する。
    • この本は必ずしも脳科学の個別の成果、つまり [B] という科学的事実やその重要性を否定しているわけではない。疑義を呈しているのはこの「実は……にすぎない」という部分、すなわち [A] と [B] を結びつけるその仕方、に対してである。唯物論的主張でおこなわれる [A] と [B] の結びつけ方についてこの書はライルを援用し、「カテゴリー・ミステイク」であると見ている。
    • [A] を [B] で置き換えるこのような文法を突き詰めると、「心などというものは [B] にすぎず、実は存在しない」という主張に行き着く。それではいったい「問い」は何を端緒として始められているのか?
       通常、科学は日常語が持つ曖昧さを排するために厳密な定義を用いていると思われているが、しかし専門的やり取りで用いられる概念は、日常で既におこなわれている言語実践をベースとしなければそもそも意味ある概念として成り立たない。にもかかわらず、「[A] は実は [B] なのだ」という言明形式によって専門用語が日常での概念使用より優越するものとされ、[A] が格下げされてしまう構図がある*1。ライルはこのような「実は」という形式では [A] は網羅できず、[A] と [B] の概念がどのような関連を持っているのかを追求すべきであると考えた。本書の立場も基本的にこれに倣っている。
    • 「実は……にすぎない」という言い方は、問いを解決したと見せる形式として有効性があり、カテゴリー・ミステイクであろうとなかろうと実際に機能している(現に脳科学唯物論的記述がそのように膾炙しているのだから)。こうした視点は第4章で、科学的知見が社会でどういった作用を為すかについての考察として述べられている。


    • 第1章で脳還元主義のパラドックスとして示される「脳は世界の一部であると同時に、世界のいっさいを生みだす源泉でもあるという矛盾(p42)」「この問題は心や脳にかんする知識の増大によって解決されるような種類のものではない(p44)」という論点に関し、パラドックスへ対処している例を挙げるとするなら、やはりカントの超越論的観念論で追求される〈物自体〉と〈認識〉の関係、および経験を可能にする〈形式〉についての思考だと思う。


    • ところで第2章では、心脳問題は「唯物論」「唯心論」「二元論」「同一説」のどれかに回収されるはずとされているけれども、おそらくこのどれにも入らないものとして「唯言論」というものがあり得る。(cf. 永井均入不二基義上野修・青山拓央『〈私〉の哲学を哲学する』 第IV部)
  • 関連個所

まさに「心」という言葉にどのような意味を与えるかということ自体がほかならぬ心脳問題の難問であり、あいまいなままにとどめざるをえない対象、探求しつつある当の対象でもあるからです。(p67)

しかし、考えてみれば、もともとこの問題が提起されたのは、「痛み」という疑うことのできない経験と「C繊維興奮」という疑うことのできない事実とがともに存在し、その関係が謎とされたからでした。それを「じつはC繊維興奮しかないのだ」と言うことは、第1章の脳還元主義の検討で見たように、問題そのものをなかったことにしてしまっているだけだということになります。(p73)

ガルが頭蓋の各部に割り当てた心のさまざまな機能は、言葉によって名前を与えられ、たがいにほかの機能と区別されています。つまり、骨相学は心が言葉によって分類・区別されることを前提としています。もし心の諸機能が、言葉によって過不足なく適切に表現を与えられているならばこの前提に問題はありません。しかし、心の諸機能――とりわけ感情や性格を含む諸機能――をどのように言葉で分類したらよいかということ自体がとても大きくて困難な問題です。そしてこの問題は、脳の可視化がどこまで進んでもなくなることはありません。いいかえると、心と脳の関係を探究する研究においては、それぞれの研究者が心をどのようなものと考えているかを抜きに考えることはできません。(p104)

科学のつとめは反対命題の支えのもとで世界の現象を記述することですが、それは世の中に反対命題しか存在しないということを意味しません。そもそも、なぜ「本当は反対命題しか存在しない(心なんて本当は存在しない)」と言いたくなるのかを考えると、むしろこの主張は、存在しないはずの心的現象の圧倒的な自明性を前提にしていると考えたほうが自然です。そういうわけでこの立場は決してそれだけで完結することはできません。もともと心脳問題自体が、心と脳の関係という難問を前にして「心なんて本当は……」と言いたくなってしまうような困惑から出発しているのだから、それでもなお「心なんて本当は……」と主張することは、単にアンチノミーをなかったことにしたいという願望をあらわしているにすぎません。(p138)

科学が説明する世界こそが本当の世界で、人が日常的に経験している世界はなにかニセモノであるかのような感覚(p141)

人が感じまた考える日常的世界と、科学によって記述されるような物理的世界とは無関係どころか、抜きがたく関係しあっている(p144)

ギルバート・ライルは、二つのどちらかの記述が他方より本質的ということはない、ただ両者はどのような観点から世界を見ているかが異なっているだけだ、と考えました。(p144)



*1:本書では触れられていないがライルはこれを「中傷効果 poison-pen effect」と称する。






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell