::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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 イーガン “シルトの梯子”



“Schild's Ladder”
 2002
 Greg Egan
 ISBN:4150121605



シルトの梯子 (ハヤカワ文庫SF)

シルトの梯子 (ハヤカワ文庫SF)






 遠未来ハードSF長編。
 ようやく出た翻訳版。原本発行は2002年で、『ディアスポラ』よりも後、『白熱光』『ゼンデギ』そして〈直交〉シリーズの前。
 もちろん易しい内容だなんてとても言えないけど、一応、現実宇宙の延長だし登場人物たちも人類の末裔ではあるので、〈直交〉シリーズと比べるとだいぶわかりやすいと思う。
 現在から2万年以上の未来、相対論と量子論を統合した「量子グラフ理論」という架空の物理理論が確立している時代。この理論に基づいて局所的に現宇宙とは別種の真空状態をつくろうと実験したら、それが予想外に拡張し、光速の半分の速度で既存宇宙を飲み込み始めて人類の危機!……という話。

 作中の時代での物理学はいわゆる多世界解釈に沿っていて、デコヒーレンスの概念が特に説明上の要所となっている。たとえば量子的重ね合わせがマクロな観察で古典力学的に見えてしまうという問題も、それは一方の状態をデコヒーレンスの結果として見ているからで、実際は多世界に分裂しているのだ、というように説明される。量子グラフ理論はこのような考え方を持って2万年もの間、説明基盤としての有効性を維持してきた。しかし作中で起こるオルタナティブな真空による侵食という事態によって、その普遍的な妥当性が揺らぐ。結果、科学者たちの再検討を経て、量子グラフ理論もまた多世界がデコヒーレンスした後のひとつを見ていたに過ぎなかった、ということが判明する。
 状態の重ね合わせとデコヒーレンスによる選択という構図が説明理論の適用範囲を拡張する……ということが入れ子状に重ねられていくところがおもしろい。この累進によって宇宙のあり方の可能性が広げられ、また、15節以降ではそうした異質な世界の描写によって物語の様態も新たな姿へ引き上げられていく。
 インフレ的展開は『ディアスポラ』にも通じるものがあるけれど、量子論の分裂と収束というトピックに着目している点では『宇宙消失』に近い。『ひとりっ子』に登場した「クァスプ」というデバイスも絡ませて、自由意志と決断の意義というところにもつながっている。


 物語は冒頭のダイヤモンド・グラフに始まり、最後はこれを見出して終わる。閉じるテクストの円環構造。つまりはループ、まさしくシルトの梯子。
 ループ変数の話で言えば、では物語の経路全体をたどってループの始点に戻ってきたときに変わったものは何なのか、ということになるのだろう。ループをたどる経路というのは、物語それ自体のことでもあるし、作中のキャラクターたちがおこなう「旅」のことでもある。旅は登場人物たちにもキーワードとして語られているけど、彼らの旅は並大抵のものではなく、時間的にも距離的にもきわめて遠大。法則すら異なる別宇宙にまで至るほどに。もはや測ることもおぼつかない遠路を経て行き着く物語の最終地点、しかしたどり着くとそこは始まりの場所であったことを読者は知る。始点と終点に差分があるとすれば、それこそは物語を通した読者の体験に見出されるものと言えるのかもしれない。
 物語が語る内容(作中で示される物理学的モデル)と物語の全体構造が重なり合う小説。これはイーガンの作品のなかでも構成が相当きれいにできているものではないかと思う。








 






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell