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“天気の子”






“天気の子 Weathering With You
 監督/脚本 : 新海誠
 2019




 公開日に見てきた。
 ちょうどその頃まで全国的に梅雨が長続き、記録的な日射不足という状況だったので、「ずっと雨が降り続いている」という映画の設定と完全にシンクロしていた。現実世界の方はその後ようやく晴れの日も戻り、既に夏らしい暑い日々となってきているけれど、あのように現実とつながる感覚でこの映画を観れたのはとてもよかった。

 物語は、古典的な逃避行。
 引き裂かれようとするふたり。大人から理解されず、障害となって立ち塞がられても、相手を探し続ける。
 ……そこから「成長」ではなく「世界」の否定に行くのがこの作品の大きなポイント。
 超自然的な状況で引き裂かれるふたり、というところは『君の名は。』と通じるものがあるけれど、『天気の子』の方が、捻り・起伏の数が少ない。
 ただ、キャラクター設定はこっちの方が好みに合っていた。これは擬似家族的な関係がきれいに構成されていたことにもよると思う。(後述)

 映画のつくりとしては、やはり今回も Radwimps を前面に押し出して感動を強調していくスタイル。
 ピークで楽曲が音量を上げてサビが流れる……っていう、漫画で大文字台詞と擬音が見開き大ゴマに目一杯流れてるのを見るような、あからさまな「感動ポイント」の標示。単なる劇伴というより、唯一無比で独特の「こういうジャンル」なのだ、っていう感じがある。
 実際、Radwimps は前作よりもかなり制作に深く関わっているようなので、評価がどうあれ、もはや切り離せない存在になっているのは事実だろう。



 変わる世界

「世界なんて(最初から)狂ってる(ようなものだ)」
「世界なんてどうでもいい」
「世界のかたちを決定的に変えてしまった」

 ……ここで言う「世界」ってどういう意味で言っているのか。
「観測史上って言ってもせいぜい100年、でもこの絵は800年」っていうことからすると、「表面的な・日常的な世界のかたち」は変わったけど、その背後にあるもっと深層としての世界の本性のようなものは変わっていない。むしろそっちに立ち戻った、というような。
 だとすると必ずしも「世界」の否定とは言えず、「(真実の)世界」への回帰、と言うべきかもしれない。


 なんだかんだ各作品でだいたい「世界」って言葉が台詞に出てくる。
 ・映画『天気の子』スペシャル予報 https://youtu.be/DdJXOvtNsCY
 ──この動画、最初の方の過去作品まとめの編集がつくづく秀逸だと思う。
 しかしこうして見ると、ほんとラブストーリーをひたすら追求してるんだなー……。
 そのなかでもいろんなパターンとバリエーションがあって、今回は「(みんなのためにではなく)自分のために祈って」となるわけだけど、この結論はわりと良いと思っている。


 二重の疑似家族

 帆高はふたつの擬似的家族に属している。
 ・帆高/圭介/夏美
 ・帆高/陽菜/凪
 どちらも男2・女1っていう構成。
 この二組は、擬似的保護者としての男女とその間に挟まれた男の子っていう関係。まさしくその通りに描かれた画面(「子供を中央に挟んで歩く3人」という構図)も出てくる。
 帆高は東京に出てきて最初に圭介/夏美との疑似家族関係のなかに組み入れられ、その後、陽菜との出会いを経て、帆高/陽菜/凪という次の疑似家族関係を樹立し、逃避行によってさらにその関係を強化する。
 要するに、真正的な家族関係の発展──両親のもとに生まれ、やがて独立して結婚し子を設けて自分の家族をつくる、という流れをなぞっている。
 ただしそれは擬似的に模したものであって、真正な関係そのものではない。圭介/夏美は叔父と姪であり帆高とも血縁関係はないし、凪も陽菜の弟で帆高との血縁関係はない。
 違う言い方をすると、帆高はふたつの疑似家族それぞれにおいて、自分以外のふたりとは血縁関係がなく、自分以外のふたりは互いに血縁関係にある(叔父/姪、姉/弟)。自明で先天的な関係性が備わっている男女ふたりのところに、そのような関係を持たない他人としての自分が家族として所属する──という構図。そのなかで帆高のポジションは、「子」から「親」へと変わっていく。
 自分以外のふたりに自明性が備わっているからこそ、他人である帆高が彼らと結ぶ関係にそれぞれ意味(価値)が生まれる。あえて選ぶことの意味が。



 表現

 いまさら言うまでもないけれど、とにかく絵がきれい。
 水の表現、空の表現。
 建物の表現。スタジオ兼住居、廃屋。
 背景だけじゃなく、人物の細かな表情や動きも良かったと思う。


 これはまちがいなく「東京」の映画だけど、他の「東京映画」と比べるとどういう特徴があるか。
 たとえば近年の「東京映画」なら筆頭に『シン・ゴジラ』が挙がるわけだが、二作品(二監督)とも「鉄道」に対するフェティシズムというのがはっきりとした個性になっている。あと、どちらも東京の破滅が描かれる。これらは共通点。相違点としては、描かれる地域・街の偏り。『シン・ゴジラ』は南側にウェイトがある。湘南 - 武蔵小杉 から、 品川 - 永田町 - 丸の内/八重洲と。『天気の子』は南(竹芝)から入京するけど、その後はどちらかというと北側寄り。新宿 - 代々木 - 田端。
『シン・ゴジラ』は「政治」「軍事」に焦点が当たっているのでそういう諸々の場が出てくるし、巨大生物に見合った視点(アイレベル)で描かれるという特徴があるけれど、『天気の子』の方はもっと市井の生活者の視点。ただし物語上、超常性もあるので、急に天空へ舞い上がって見下ろす俯瞰画面も出てきたりする。
 この「地面から一気に天上へ視座が移り変わる」というのは大きな特徴。これによって人間の身体的スケールから俯瞰のマクロスケールまで、「東京」が多段階でシームレスに描写されることにつながっている。路地裏や住居内部といったせせこましい場面から、超高層ビルが林立しそれらが地形のように把握される遠景に至るまで、さまざまな「東京」の絵の連続性。
 また、雨が立ちこめているところも重要。『ブレードランナー』での近未来のLAと違ってそれほど鬱屈ではないにしても。


 あとは、建物内部、とりわけ「住居(兼仕事場)」に焦点が当たっているところも『天気の子』の特徴。
 田端にある陽菜のアパート。新宿(区)にある圭介の仕事場。陽菜のアパートは電車の騒音に見舞われる高台のアパート二階、生活装飾に溢れている。圭介の住居は半地下で職住混合、前所有者のバーもそのまま残っていて全体に不精な雰囲気。
 この空間の違いは、ふたつの疑似家族のあり方の違いを描出している。「大人」としてまがりなりにも独立して生きている圭介の空間が怠惰であるのに対し、本来保護者を必要とする未成年の陽菜の空間の方は、家庭的な装飾が示しているように、「平凡であたたかな家」であろうとする努力がはっきりと表れている。





IMDb : https://www.imdb.com/title/tt9426210/






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell