::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

 Akihiko Matsumoto “Metamemory” (2014)



Akihiko Matsumoto “metamemory








0




1

  • “アルゴリズミック・デザイン” というのは、ちょっと前に建築デザイン界でも流行してたりした。
     具体的にどういう手法なのかというと、主に3D-CAD/CGのスクリプティング機能を活用した建築空間デザインで、プログラムを組み数学的アルゴリズムに沿った自動的な形態形成をおこなう……というもの。目新しく話題になった時期は過ぎたかもしれないけど、この方向の試み自体は一定範囲で定着してはいる。

    • いつ始まったかっていうのははっきり言い難い。自分としては、この系統のもので最初にインパクトがあったのはFoAの横浜港国際客船ターミナルコンペ案だった。そこでは、手法の特長として恣意性の回避が強調されてたと思う。
    • 今だったら事例としてもっとも目立つのは Zaha Hadid の新国立競技場だろう。Zaha の一連の建築は、“パラメトリック・デザイン” と自称されるアルゴリズミック手法に基づいている。それらがアルゴリズミック・デザインの最適例であると言うべきかは迷うところだが……。
      Zaha の興味深い点は、初期のデコンストラクション・スタイルの時期と現在のパラメトリック・スタイルの時期とでデザインを説明する仕方は全然違ってるのに*1、できあがる形態自体には以前からの ”Zaha らしさ“ がシームレスにつながってきてるのを感じるというところ。――あとで書くけど、これはアルゴリズミック・デザインというものが基本的に「根拠」を巧く調達できる技法であることを示していると思う。

  • この手法にどういった意義があるのかという点については、「検証可能性がある」ということがメリットとして提唱されている。パラメータ条件を修正しながら結果の算出を繰り返し、最適な解を見出していく、というような。(『アルゴリズミック・デザイン―建築・都市の新しい設計手法』 asin:4306045234, 『アルゴリズミック・アーキテクチュア』 asin:4395009077
     コンピュータ・プログラムによる演算という側面よりも、形態形成過程に「ルール」「手続き」が介されていることの重要性の方が強調されてて、別にコンピュータを使わなくたってアルゴリズミック・デザインはできる、というようなことも主張されてたりする。
  • ……といったようなことが建前としての意義ではあるんだろうけど、自分が思うには、実用上のメリット(実際にアルゴリズミック・デザインが採択される理由)は以下の二点にある。
    • 従来の手法では得られないような、なんかデジタルっぽい複雑で新奇な形態をつくることができる。
    • その形態の根拠説明を簡略化できる。採用したアルゴリズムと入力した条件だけ説明すれば、形態自体は自動的に生成されるものであるので説明が不要。
  • これらの利点は、「曲面」というものが設計上でも施工上でも比較的容易につくれることが可能になってきたこととそれに派生する困難に応じている。施工技術上、曲面形態というものがわりといろいろつくれるようになって、一方で設計ツールでも曲面は簡単に描けるようになってきた、ではそういう形態の建築をデザインしてみよう―― となったときに、設計上の拠り所としてアルゴリズミック・デザインが必要とされた、というような。
     どういうことかというと、何かしらのツールを前にしていざ自分で自由曲面を実際につくろうとしたとき実感すると思うんだけど、何の根拠もなく曲面形態を描こうとするのって、すごく難しい。なんとなくのカーブを描いてみることはできるだろうとしても、結局それってセンスで決めるしかないの?みたいな話になってしまう。
     ところがそこにアルゴリズミックなプロセスを介在させると、カーブの意味というものを棚上げすることができる。気ままに描かれたように見えるカーブであっても、それは用意されたアルゴリズムの計算から自動的に産出されたものであるから、微妙な曲率についてなぜそうなのか説明をおこなう必要なんてない。逆に言うと、そういうアルゴリズミックなプロセスを介さずにただセンスだけでカーブを描くのはあまりにとりとめなくて不安だし、そういうセンスを共有しない他人の側としても、根拠に疑問をもってしまう。

  • というように、アルゴリズミック・デザインというのは、何よりもまず自由形態への「根拠」を提供してくれるという点に実用的意義があったように思う。
     しかしこの「根拠」というのも別に無敵なものではなくて、たとえばさっきの Zaha の例である新国立競技場がいろいろ物議を醸してるという状況がちょうど示してる通り、いかにアルゴリズミックにデザインされたものであっても、それだけで万人を説得できるわけではない。手法がアカウンタブルであることは、そこから生成された結果としての形態に対する妥当性と必ずしも一致しない。

    • それは、解決されるべき問題が何でありそのためにどのようなアルゴリズムを採用するかという設定の問題という面もある。純粋に形態上の操作に終始するようなものではなくて、何らかの「実利的機能」を追求したもの、たとえば都市の熱環境負荷を抑制するためのもっとも効率的な空間形状をアルゴリズミックに求めた…… というような建築であれば、広範な支持が得られやすい気はする。
    • しかしその場合でも、もし形態が都市的・社会的コンテクストからあまりにかけ離れたものであったなら、簡単には受け入れられないだろう。

  • 強調しておきたいのは、結果に至る手法がどのようなものであろうとも、最終的には、できあがった「形態」が過程と切り離されて評価対象としての俎上に載る、ということ。
     もうひとつ。アルゴリズミックな形態生成手法をおこなっても、そこにまったく恣意性が入り込まないかというとそうでもなくて。パラメータ操作でさまざまに異なる形態が産出されるなか、そのどれを最終的に採用するかというところにはデザイナーの意志決定が関わる。結局、最終的な形態を世に送り出す決定をおこなう際に、古典的な「審美性」「センス」といったものが入り込む余地がある。――というより、アルゴリズミック手法が、審美的デザインの(公言されない)根拠として使われてる側面はあると思う。

    • もっとも、「恣意性」とは何か、というのもなかなか難しい問題ではあるけれども……。「完全な恣意性」ってあり得るのか、っていう観点もあるし。(「自由意志は存在するか」という哲学命題に似てなくもないような)
      自由意志の問題までいかなくても、「個人が根拠なくかっこいいと思って決めたかたち」というのにも、何をもってその個人がそれをかっこいいと感じるのか、というところには社会的な選好基準の背景が関わっているはずで(たとえばブルデューが言う「ハビトゥス」)、その意味でいうと、「完全に個人的な恣意」というのはあり得ないはず。
      (「美」は自然に内在する自明なもの、とか遺伝子とか脳の選好として決まってる、という考え方ではなくて、基本的に「美」は社会的概念として構築されている、という考え方に関連する)
    • そもそも人によって「恣意性」という語に何を含意しているのかが実はけっこう違っていたりもする。
      「恣意的」ということばがどのようなときにどのような使われ方をしているのか、を調べてみるときっと有益。基本的には、「根拠がある」ことの逆が「恣意的である」という言明で主張されるように思う。(前者が何らかのかたちで主張される際に、後者の語句がセットで用いられる)
    • 一方で、アルゴリズミック・デザイン実践者側は、この手法によって「美」のあり方自体も変わるんだ、というようなことを言ってもいる。アルゴリズミック手法でつくられた建築空間にはルールに基づいた秩序があり、できあがった空間からそれが感じられる、そういうのがあたらしい美のあり方なのだ、と。(ibid. フロリアン・ブッシュ)(ここで「美」という言葉が直截用いられているわけではないが。)

  • ここで言っておきたいのは、そういう「恣意性」は必ずしも排除されねばならないものである、ということではなくて、むしろそのような恣意的選択も不可欠な重要性を持っているはずだ、ということ。
     ……あまりこの「恣意性」という曖昧な語を多用したくはないし、「審美的選択」と言い換えてもいいんだけど(この語もしっくりこないものではあるが…)、要するに「アルゴリズムによる自動的生成」だけでなくデザイナーによる「決定」「取捨選択」というのがやはり重要で、それを欠いた生成物というのは端的につまらないものになってしまうのではないか、と。

    • 実際、設計プロセスにおいてそのような「デザイナーによる決定」がないままにデザインが世に送り出されることは、現実問題としておこなわれ得ないと思う。




2

  • 導入部がやたら長くなってしまったけど、ここからようやく本題の Akihiko Matsumoto - "Metamemory" の話。
     この作品も、制作手法を説明するテキストに “アルゴリズム” というキーワードが用いられている。

本作ではメタ記憶としての音楽をテーマにしており、音楽の伝統的な様式や技法、思想をメタ的なアルゴリズムとして捉え直し、積極的に生成規則として引用し様々な方法論で組み合わせながらプログラミングを通じて再構成することで、伝統的な音楽の歴史とは全く別の音楽体験を作り出すことに取り組んでいます。 
― Metamemory 全曲解説 http://akihikomatsumoto.com/works/metamemory.html


  • 作者のサイトに書かれている各曲ごとの解説を見ると、さまざまなつくられ方が試みられていることがわかる。リズムパターンやメロディの数学的生成だったり、確率的な和音構成だったり。ライブ演奏での身体的所作を音響データへフィードバックさせる、なんてことも。
     それらが音楽手法としてあたらしいかどうか、先行する歴史的試行との関係でどのような意義があったりなかったりするのかは自分には判断することができないけれど、できあがった結果としての曲が、エレクトロニック・ミュージックとして非常に魅力的なものになっているという点ははっきり言える。
     いくらアルゴリズミックにおもしろいプロセスでつくられていたって、音楽として気持ちいいものになっていなかったら高い評価は受けないだろうな……と思う。そういう点では、このアルバムは作者不在の機械的自動生成物というわけでは全然なくて、「恣意的」「審美的」決定者としての作者が確実に(効果的に)介在している。
  • 一方で、じゃあ手法というものは無意味なのかというと―― 手法をまったくスルーして楽しむことももちろんできそうな気もするんだけど、手法の説明テキストに目を通していなかったとしても背後にある数学的秩序のようなものは感知できて、そういうものの気持ちよさを感じたりするのもまた事実だったりする。(これは前述のフロリアン・ブッシュの考え方にも通じるものがあると思う。)
  • 加えて言うならば、この作品の場合、作者自身による解説テキストが果たす役割も大きいように思う。
     “7音のダイアトニック音階” “パンダイアトニシズムとポリフォニーの様式的融合” “マルコフ連鎖” “アルヴォ・ペルトのティンティナブリ様式” “調性音楽の分析理論として20世紀に誕生したシェンカー分析” “FM合成や加算合成を使い、常時100音以上重ねて作ったクラスター音響” “微分音のマイクロトーナルクラスター” “生楽器のダイアトニッククラスター“……
     詳細は理解できなくても、こうした語句の数々から伝わるテクニカルな空気、背後に整然と構築された思想と技法の体系があるだろう気配、知的刺激とも言うべき語感、そういった諸々を並行させたトータルが、単独での音響体験をさらに増幅させる。
     あまり語られることがない気がするけど、アルゴリズミックな制作手法というものには、実はそういったテクニカル・フェティシズムみたいな側面もあって、そこにも価値・意味があるように思ったりする。




Akihiko Matsumoto (松本 昭彦)

*1:全然違っては見えるけれど、まったく断絶を経てるとまでは言えないかも。1982年の “Randomness vs Arbitrariness” というテキストには既にアルゴリズミック志向の萌芽が感じられるので。

*2:今気付いたけど、廃刊された10+1って、ウェブ上で過去記事見れるようになってるんだね……。公開制限されてるのもあるみたいだけど、重要な記事はかなり読める。






music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell