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ピーター・ワッツ “巨星”



“The Island and Other Stories”
 2019
 Peter Watts
 ISBN:4488746055







 短編集。全11作品収載。全体として少し玉石混交なところはあるかも。
 “天使” “遊星からの物体Xの回想” “帰郷” “付随的損害” “巨星” “島” あたりはおもしろかった。

“天使 Malak”, 2010
“遊星からの物体Xの回想 The Things”, 2010
“神の目 The Eyes of God”, 2008
“乱雲 Nimbus”, 1994
“肉の言葉 Flesh Made Word”, 1994
“帰郷 Home”, 1999
“炎のブランド Firebrand”, 2013
“付随的損害 Collateral”, 2014
“ホットショット Hotshot”, 2014
“巨星 Giants”, 2014
“島 The Island”, 2009

 なお、これらの作品のほとんどは、作者のウェブサイトで原文がCCLで公開されている。
 https://rifters.com/real/shorts.htm




  “ホットショット”
  “巨星”
  “島”

 この3作品は “The Sunflowers cycle” と呼ばれるシリーズの物語。
 なかでも “巨星” と “島” は、古典的な「機械による反抗」「機械と人間の対立」という図式を刷新したような話で、非常におもしろかった。

 銀河系中をジャンプ・ゲートのネットワークで結びつけようというプロジェクトを開始した人類。ゲートをつくるための小惑星改造船を、光速の20%のスピードで銀河系各所へ送り出す。船はAIが完全に制御しており、人間の乗員たちは長大な行程のほとんどを冷凍状態で過ごしている。数千人に及ぶ人員は単に多様性を確保する量的ストックであって、ゲート建造作業のときと、AIが処理できないイレギュラーな事態が発生したときだけ、彼らのうちわずかな人数が目覚めさせられる。
 ゲート建造船のひとつ〈エリオフォラ〉はそんなミッションを長いこと続けていたが、いつしか地球も太陽に飲み込まれてしまっただろうほどの時間が経過してしまう。もはや任務など無意味であるとして旅の中止を試みる乗員たち。しかし船のAI〈チンプ〉はそれを反乱とみなし、鎮圧しようとする。両者はかろうじて和解状態に至るが、以後、人間の乗員とAIとの潜在的対立が始まり、彼らを乗せたまま船は終わりのない旅を続けていく。
 ……というのがこのシリーズの基本的な設定。

 このAIが、予測もつかない行動を起こさないようにわざと愚かにつくられている、というのがおもしろいところ。それがチンプ(=チンパンジー)という名の由来だ。愚かといっても、人間のような直感的発想力を持たないという意味であって、計算能力が低いわけではない。敵に回れば手強い相手となる。他方、人間の乗員たちは柔軟な思考が可能であり人数も多いのだが、機械のように不老不死ではないので、冬眠の間のごくわずかな覚醒時間で活動するしかない。
 そのように制約を持った者同士が相手を出し抜こうと策を弄しつつも、完全に互いを切り捨てることもできず同じ船で過ごし続けるという、永遠の両竦み状態。無限の航行時間と刹那の覚醒活動の対比のなか、緊張と安定が奇妙に持続する両者の関係がこのシリーズの主たる魅力。

 作中時系列では、“ホットショット”、未訳の “The Freeze-Frame Revolution”、“巨星”、そして “島” という順に進む。この他に執筆途中の作品があり、“Hitchhiker” という名で作者のウェブサイトに隠されている*1。これらのうち “The Freeze-Frame Revolution” が、核心イベントである反乱を描いた話で、執筆自体はもっともあたらしい。“巨星” と “島” は反乱後。“ホットショット” は出航前、「望めばいつでもやめられること」を確認しようとする話で、後の「止められない旅」「止めさせてくれないAI」という状況につながる*2
 “The Freeze-Frame Revolution” は読んでいないけれど、反乱後の時代の方がこのシリーズの本題ではないかと思う。実際、時間幅で見てもそう。反乱が失敗しても、その後、何千万年、何億年という時間を乗員たちは生きていかなければならない(そして実際にそれだけの時間を生きた)のだから。
 “島” の最後で登場人物が考えるように、おそらくこの航行は終わることがなく、チンプを屈服させることもできないだろう。永遠の抗争/拮抗/停滞のなかで彼らにできるのは、かろうじて次善を模索していくということのみ。

 というように、勝利とハッピーエンドが訪れるような物語ではなく、それどころか明確な区切りや終わりといったものすらもないようなタイプのシリーズ。この基本的な構図、世界観に、けっこう心を揺さぶられた。
 一般に物語における勝利やハッピーエンドというものは、その後に持続するかどうかは不問とされている。だが現実世界の生には、到達しさえすればあとはどうでもいいという終幕や大団円などはない。
 そしてこのシリーズにも、同じような感じがある。しかし単に「物語などない現実の生」に似てるというだけではなくて、ここには一方で、紛うことなく「物語性」というものもある。終わりがなく解決にも至らない状況であるのにしっかりと成り立つ物語が。
 緊張ある拮抗。そのなかでも「敵」は地道にあらたな試みを講じてくるので、変化がまったくないわけでもない。“島” で描かれたように、宇宙には想像も及ばぬ形態の存在もいて、外部からのそうした刺激も、わずかにではあれ乗員にとって救いや安らぎといった効果を及ぼしていく。無限の航行時間を背景に、漸進的な変化が乗員たちの切り詰められた覚醒時間*3のなかでどのように関わってくるのかというように、異なる時間モードの流れの上で物語が構築される。終わりを迎える見込みなどない両竦みのなかで、いかにして生存していくのかという人々を描くものとして。
 だからこの物語は、解決不能な問題が続き、勝利にも大団円にも到達することのない現実社会を生きるに当たって切実に響いてくる。



  “帰郷”

 これは全体的な雰囲気がよかった。かなり根源的な恐怖を感じさせる。
 深海の恐怖というのもあるが、それよりも、思考力の減退、自我が失われていくという恐怖。
 長編 “Rifters” シリーズに拡張される話らしい。



  “天使”

 無人機が自己意識を持つまでの話……と思わせるけど、実はそうではない。「意識」「自我」があるかどうかははっきり否定されている。
 末尾で獲得されたものがあるとすれば、それは「自由意志」と呼ぶべきものだろう。——というか、実は自由意志ですらなくて、アズラエルは最後まで単にルールに従い続けているだけ。アズラエルは何も獲得していない。厳密にルールへ従う結果、あたかも人間/上位存在に反抗するかのような結果につながった、ということ。それを「自由意志」と呼ぶこともできる。むしろ、『法則に従っているだけなのに外部からはそれを「自由意志」と観察することができる、それこそが自由意志、ひいては自我というものなのだ』——ということなのかもしれない。でもほんとうはこの無人機に、自由意志も自我もない。
 ……そう、これは現実の人間に対してもまったく同じことを言うことができる。であればこそ逆説的に、末尾でのアズラエルも人間同等の存在なのだ、と言ってもいいのだ。こうした論理の過程を経た上であらためて『末尾で無人機が自我を獲得する』と言うことが可能となるような、手の込んだ物語になっている。

 そんなふうにこの作品は、『無人機が意識を持つ話』と思わせてそうではなく、でも再度の捻りがあってやはり実はそういう話なのだ、と読むことができるのだけど、最初SFマガジン掲載時に読んだときは表面的に『無人機が意識を持つ話』と誤読してしまっていて、いまさらながら自省している。(→ https://lju.hatenablog.com/entry/20110708/p1 )
 そもそもアズラエルは「意識」を導入された無人機ではなくて、「倫理性」を与えられた無人機。このあたりについては 視神経 - ピーター・ワッツ『巨星』に関するメモ というエントリが参考になった。指摘の通り、原語は ‘conscience’ であって ‘consciousness’ ではない。初出の石亀訳ではきちんと「良心」と訳されているが、今回の訳だと「意識」となってしまっている。

 ただ自分の場合、アズラエルが最後に自我を獲得するって最初思ってしまったのはこの訳語とはあまり関係なくて、『実験的に高度な判断力を持たされた無人機が登場する物語なら、最後には自己意識を獲得する終わり方になるだろう』っていう先入観を、読み始めてすぐ持ってしまったことの方が大きい。意識や自我なんてなくてもいいっていう世界観に立つ話なのに、でも意識が獲得された話であるかのように読んでしまう、それこそが人の意識概念が一般に持つ特徴なのだ——と言うこともできると思う。だから自分が陥った罠はまさしく意識という概念に不可避にまとわりつく本質的なものであって、その効果によって人間のコミュニケーション一般は成り立っている、みたいなことかもしれない。


 以上のような「読み」の問題がある一方で、この作品では「語り」というものも重要、という自分の認識は初読時から変わってはいない。アズラエルが意識を持つ存在のように見えるのは、何よりもまず、語りによって視座の位置に置かれているためだ。
 そして、語りの重要性という意味で考えるなら、今回の訳より、以前の石亀訳の方がよかった。このあたり、全般的な訳語についても前掲のエントリは参考になる。石亀訳の方が文体も良い、っていう点も同意。あの訳文はリズミカルでクールだった。原文の現在形表記もきちんと訳してたし。時制って、この作品を特徴付ける上で重要な機能を果たしてると思うのだが。


 あと、これ人間側の登場人物がちょっと謎なんだけど。
 この発話をおこなっている者は正規の技術者なのか、それとも不正な工作員なのか。ペルシャ語部分と英語部分が同じ人物なのか違う人物なのかも不明瞭。ペルシャ語ってことで一瞬「イラン?」って思ったけど、アフガニスタンでもペルシャ語系統の言語が話されてるらしいのでひとりはアフガン人と思ってよさそう。
 で、「オーバーライドし続ければ……」みたいなこと言ってるから、倫理的判断をあえて覆すことが意図的におこなわれているというのはわかる。(強制を繰り返すことで服従を強化するということだろうか)
 何であれ、オーバーライドできる者である以上、ふつうに考えれば〈天界〉つまりシンダンド空軍基地側の者ということだ。もし敵対者なのにオーバーライドできる技術があるなら、まわりくどいことせずにもっと直接的な破壊工作をしてただろうし。
 とはいえ、もし最後に〈天界〉へ反抗させたのが意図的な工作の結果なのだとしたら、アズラエルは自由意志を獲得したのだと読者に思わせておいて、その実、他者の意図の上を走らされていたにすぎなかった、という更に一段上の皮肉となる。
 ピーター・ワッツはそのぐらいのこと平気でやりそうなイメージだけど、「われわれが求めていた、善悪の判断力を持った殺し屋」という台詞が開発意図の通りなので、やはり最後の行動が計画的に引き起こされたようには思えない。むしろ、皮肉な結果がもたらされた、という描き方だろう。





 

*1: 
https://rifters.com/Eriophora-Root-Archive-Log-Ahzmundin-frag/derelict.htm

*2: 
「妨げられずに行動できる」という意味での自由意志論。(両立論的自由の概念)

*3: 
これがまさしく“The Freeze-Frame Revolution” というタイトルにある Freeze-Frame(コマ止めされた画像)という語で端的に表現されている。
 






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―Angela Mitchell