::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

 East Man “Red, White & Zero” (2018)



Red, White & Zero






 Imaginary Forces と Basic Rhythm という異なるスタイルの活動をおこなってきた Anthony J. Hart が開始する別名義のプロジェクト。活動の起点はむしろ Basic Rhythm より前にあるようだが、アルバムとして音源をリリースするのはこれが初めてとなる。
 それぞれのプロジェクトを整理するなら、Imaginary Forces はインダストリアル/ノイズ、Basic Rhythm はミニマル・アプローチのビート・ミュージック、そしてこの East Man は、アンダーグラウンドMCを参加させたグライムとして区分できる。各プロジェクトの方向性は完全に断絶されてるという感じでもなくて、根底には通じ合うものがあるとは思うけれど、MCをこれほどフィーチャーしたというのは本アルバムの大きな特徴。
 Imaginary Forces と Basic Rhythm を経て今回 East Man のアルバムが出された流れには、グライムというものが複数ジャンルの雑多な混ざり合いとして生まれてきたというUKエレクトロニック・ミュージックの流れをなぞるようなものがある。インストゥルメンタルとしてのダンス・ミュージックのさまざまな試みへラップという要素が加わり、声の持つ身体性・個別性を獲得し、語りによって日常文化・生活へも接続されるという進化。

 これまでのプロジェクトにはなくて今回新たに加わった要素にこそ現時点で本人がやりたいことが最も表れているとするなら、ラップおよびそこから広がる文化的背景といったものこそがそれなのだろう。このことは、『ユニオンジャックに黒はない』の著者ポール・ギルロイをライナーノーツへ起用したこと*1、そして “East Man” というユニット名からもよくわかる。特に “East Man” という語からは、イーストエンド〜ロンドン東部への思い入れが覗える。この言葉はアルバム冒頭 “East Man Theme” のヴォイスサンプルで表明されているし、同じサンプルは Basic Rhythm の 2nd “The Basics” での “E18” でも用いられていた。“East” というとそのままグライムの地域性に結びつけられる語と受け取ってしまうが、必ずしもグライムを直截に表現していない Imaginary Forces の "Low Key Movements" でも曲タイトルに使われていたりして、彼のルーツ・アイデンティティを示すものとして重要な語であることが見て取れる。

 ふたつのプロジェクトで培われてきたビート・ミュージックのさまざまな先鋭性はこのアルバムでも効力を発している。だから音楽ジャンルとして、グライムというものだけに還元されるようなアルバムではない。細緻でコントラスト高めの複雑なビート、密度を絶妙に制御した音響空間は、トラック単独でも充分に存在感を持つ。
 それでも、Irah や Killa P といったグライムMCたちのラップからは、やはり “East” でのより具体的な生が否応なく伝わってくる。M-7 “Drapesing” なんて、もはやラップじゃなく完全にストリートの語りそのまま。このトラックだけノンビートでけっこう異質だけど、アルバムのちょうど中間に配置されていて、構成上も大きな役割を果たしている。
 こうした全体を踏まえて比べると、Basic Rhythm “E18” のヴォイスが言う “Listen” と、このアルバムの “Look & Listen” が放つ “Listen” では、同じ語でも意味合いがまったく変わってくる。“E18” の方は「曲を聞け」という感じだけど、“Look & Listen” の方は「この声を聞け」という意味のものとして。“Red, White & Zero” での言葉は感情・共感を喚起させる道具ではなく、日々の生や思考、立ち位置の表現といったような、つまり語られるべき「内容」を有するもの。
 そして、トラックも決してラップへ奉仕するだけの役割に後退しているわけではない。ふたつはそれぞれを補い合っている。高速で語量の多いラップと、強調されたエレクトロニック・ビートが互いにシンクロして繰り出す圧。結果、ベース/ビート・ミュージックの進行と脈動を感じられるようなアルバムとなっている。

Even without words, this music speaks for itself and tells a story. It calls out to be understood while seeking ways to escape interpretation. ――Paul Gilroy







East Man

Information
  Birth name  Anthony J Hart
  OriginHastings, UK
  Current Location   London, UK
  Born1979
 
Links
  Officialhttp://www.entropyandenergy.com
  Twitterhttps://twitter.com/HiTekSounds
  LabelPlanet Mu  http://planet.mu/releases/red-white-zero/

ASIN:B078X9R35T


*1:Imaginary Forces の "Low Key Movements" でもスチュアート・ホールの言葉が用いられていたりして、以前からカルチュラル・スタディーズへの傾倒があったようだ。

 若桑みどり “イメージの歴史”






イメージの歴史 (ちくま学芸文庫)

イメージの歴史 (ちくま学芸文庫)






 「イメージ」を研究対象とする学際的・超域的な文化史。放送大学での講義をまとめたもの。
 特徴は「新しい美術史」としてポスト・コロニアルやジェンダー歴史学を取り込んでいる点にある。つまりドミナントで「正統」な歴史ではなく、「周縁」「異端」「民衆」「女性」といったところへ目を向ける視座。
 美術史のこうした転換の系譜として、ヴァールブルク学派の美術史(ex. パノフスキーフーコーからの影響を受けたアナール派社会史やニュー・ヒストリーの理論、そしてポスト・コロニアルの理論(ex. サイードという流れが示される。
 たとえば、史書や公的証言の残っていない民衆は歴史上のサバルタンに他ならないが、イメージを史料とする美術史は、彼らの歴史に光を当てるものとして有効とされる。

 本書全体は、前半の理論編と後半の実践編のふたつから構成されている。

  • 理論編
      • イメージとは、観念を視覚化・再構成したもの。…「表象」
          • 描かれたイメージは対象そのものではあり得ない。イメージとは、解釈され、再構成された現実性。あるいは、想像力によって創り出して視覚化した虚構。
      • イメージはなぜ生産されるのか。
          • 具体的には、呪術 / 不可視のものの視覚化(宗教的イメージ、抽象的観念)/ 権威化(公共的記念碑)/ 歴史意識の増幅 / 他者・敵の創出 / 欲望の喚起(性的イメージ)/ 社会批判 ……といったものが目的にある。
          • 社会は経済的・社会的・政治的な関係や構造だけで成り立っているわけではない。想像されたものや象徴的なものも、社会を維持したり変化させたりする。(ex. 「国家」を支えるイメージ(国旗・国歌、建国神話など)。現在、古くからの国民文化だと見なされているもののほとんどは、近代化の過程の中で国家によって生み出されたもの(cf. ホブズボウム『創られた伝統』)。)
          • 芸術はしばしば有用ではないものと見られるが、有用なものでなかったなら人類はこれほど芸術を恒常的に生み出してこなかっただろう。芸術も、社会の需要に応じた生産物であり、社会の中での有用性を持っている。
      • 方法論
          • 唯一で絶対的なイメージの解釈といったものなどはない。だが方法論が何もないというわけでもない。
            イメージには、宗教における象徴のように、歴史の中で形成されてきた定型がある。(特に西欧は、徹底した象徴の体系を築き上げてきた)
              • 図像学(イコノグラフィー)」:定型図像を研究する方法。
              • 「様式史」:定型を表現する色彩・構図・描画など、時代や社会で共通する方法を研究するもの。
              • 「図像解釈学(イコノロジー」:作品の成立条件を分析して図像・様式の意味を総合的に明らかにする方法。
  • 実践編
          • 古代から現代まで、西欧美術を中心に具体的なイメージを取り上げる。ギリシャ文化、聖母像ルネサンスの公共彫刻、近代国家の用いたイメージなど、さまざまな事例を取り上げ解釈されているが、たとえばダヴィデとユーディットは以下のような内容。
      • ダヴィ
      • ユーディット
          • 虚構の歴史として語られた女性英雄
          • ユーディットの扱われ方の変遷
              • 征服された国家の表象
              • 家父長社会体制により、「メドゥーザを殺すペルセウス」で置き換えられる。
              • 女性作者の描いたユーディットの再発見


 従来見過ごされてきたような対象へ目を向けることが、この本で試みられる美術史のあり方。
 なかでもやはり、「女性」のイメージが芸術や国家の表象としてどのように用いられてきたかを分析しているところに大きな特長と意義がある。古代・中世から近代国家(フランス革命の表象、アメリカの『自由の女神』、全体主義ファシズムのイメージ戦略)、そして現代日本の公共彫刻まで。アニメや漫画での女性キャラクターといったものまでへは対象範囲が及んでいないが、同様の方法論は通用するだろう。
 相互理解への到達が望めないような議論の戦線というものがいろいろあって、フェミニズムとそれに対する反発というものも殊更よく目立つ例として挙げることができる。特に「表現の自由」をめぐる緊張関係は現在も折々で浮上したりするわけだが、この本では表現に対するそうしたジェンダー論的な異議表明がどのような意図によっているのかが記されている。反発の存在を相当に意識した書き方にもなっていて、そうしたところからも、われわれがどのような社会に生きているのかが覗い知れるだろう。
 イメージの意味を知るにはそれが置かれた社会を知らなければならないとして、そのように提示されたイメージの解釈からは逆に社会がどのようなものとして分析されているのかがわかるし、さらにまた、解釈に対して向けられた反応からも社会の姿が表れてくるとも言える。






 

 raster-noton. source book 1






Raster-Noton Source Book 1

Raster-Noton Source Book 1






 「コンセプトブック」というものに興味を持っている。
 以前、建築デザイン界で分厚い本が流行したときがあって、OMA の “SMLXL” を筆頭に、MVRDV の “FARMAX”、UNStudio の “move” といったような、ページ数が3桁後半〜4桁に及ぶものがオランダ勢を中心に立て続けに出版されていたことがあった。図やテキスト以外にも写真や図表を雑多に詰め込み、脈絡の薄いものも含めてとにかく大量のイメージを集積させ巨大なボリュームにまとめるという手法。それらには内容よりも前にまず「物」としての圧倒的な力があった。活動や達成が目に見える明らかな実体として自分の前にあるという、端的な存在感。

 エレクトロニック・ミュージックの最重要レーベル raster-noton が出したこのカタログ・ブックも、そうした記録と物象化の一例として連ねることができる。
 全400ページ、重量3kg。銀灰色の表紙に太いゴシック体で記されたタイトルには、静かにみなぎる自信を感じずにいられない。そして、5cmの厚さと、手にしたときの疑いようもない重みは、20年の歳月で達した175というカタログナンバーをフィジカルな説得力で示してくる。
 “source book 1” と題されたこの本は、レーベル設立20年となる2017年の3月に発行された。1996年から2016年までにリリースしたすべての作品のカバーデザインとクレジットを並べている。
 〈アーカイヴ〉という考え方へのこだわりが、収載されたインタビュー冒頭で語られている。この語は、レーベル名のサブテキスト “Archiv Für Ton und Nichtton(サウンドとノン-サウンドのためのアーカイヴ)” の中に含まれているものでもある。対象が「サウンドとノン-サウンド」だと言われていることも重要で、実際この本では、音源にかぎらず書籍やポスター、Tシャツなど、レーベルがつくり出したものすべてにカタログナンバーが付けられ「作品」としてカウントされている。このあたり、音楽性は異なるものの Factory Records に似ていて、インタビューでも親近感が語られている(さすがに Factory Records のように「猫」までは含んでいないが)


 このような〈アーカイヴ〉の提示が成り立つのは、レーベルのあり方に強い一貫性があるからだ。
 リリースされた音源(=すぐれたものであっても、レーベルカラーに合わなければリリースしないという姿勢)にかぎらず、スリーヴデザイン(=創始者3人それぞれがデザインに通じ、すべて自分たちで手がけている)も含めて、総合的なレーベルのアイデンティティがはっきりしている。
 もちろん20年のなかで少しずつ変化している部分もある。Olaf Bender と Carsten Nicolai へのインタビューではそうした面についても語られている。
 しかし何を追求しているのかという姿勢そのものは不変だ。単に「レコードを発行している組織」にとどまるのではなく、それ以上のもの、何か統合された世界を提示するような存在。
 そうした意味で raster-noton は、現代における「創造的活動」というものの理想的なあり方を示している。


 ところで、source book 発行後の同年5月に raster-noton はレーベル分割を発表し、設立以前にそうだったように Olaf Bender の “raster-media” と Carsten Nicolai による “noton” のそれぞれで活動していくこととなった。両者は今後も raster-noton 名義でコラボレーションをおこなっていくとも表明されているが、今後 raster-noton としての source book 2 というものがつくられるかどうかはよくわからない。
 ただ少なくとも source book 1 は、区切りを迎えた raster-noton のちょうど集大成のようなものになったと言える。ひとつの概念、ひとつの歴史が凝結したようなものとして。
 一般に表現活動は作品という単位で世に示されるものだけれど、それらを生み出す作り手の活動総体がどのようにまとめ上げられるべきなのかというとき、この source book は最良の答になっていると思う。raster-noton という活動が人々に記憶され言及されるとき、その想起には必ずこの本が伴われることになっていくだろう。






 

 ヘイドン・ホワイト “実用的な過去”



“The Practical Past”
 2014
 Haydon White
 ISBN:400061228X



実用的な過去

実用的な過去






 1973年に出版されたヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー』は、ダントーの『物語としての歴史』とともに「歴史の物語論」における重要著作と評される。
 喩法論から歴史の詩学を展開した『メタヒストリー』は、歴史の相対主義化に与するものという批判を受け、とくにホロコーストをめぐる議論の場に立たされた。
 こうした議論を経てあらためて歴史の表象可能性を考察したホワイトが2014年に著した論文集が、この『実用的な過去』である。『実用的な過去』『真実と環境』『歴史的な出来事』『コンテクスト主義と歴史的理解』『歴史的言述と文学理論』の5本に加え、後記および付録『歴史的真実、違和、不信』から成る。

 「歴史の物語論」は、歴史がどのように記述されるかいう形式についての考察として重要性を持っているが、歴史修正に通じる相対主義構築主義という批判がどうしても付いてまわり、取り扱いが難しい。日本でも『物語の哲学』の野家啓一と上村忠夫・高橋哲哉の間でそうした論争がおこなわれている。
 「ホロコーストと文学」の議論以後のホワイトについては、以下の記事が参考になる。


『メタヒストリー』が現在に問いかけるもの http://dokushojin.com/article.html?i=2486

「むろん、歴史学の作法として史料の収集を無視しているわけではありません。ホワイトは、史料収集は準備作業として必須とするのですが、そのときすでに叙述の「特定様式」を選択しているとするのですね」
「ホワイト流にいえば、リアリティの作り方のひとつに過ぎない実証主義が、あたかもニュートラルなものであるかのように考えられ、全体を覆ってしまい、みながそれで納得させられてしまっているという不幸――いまだに実証主義が「決め手」と見えてしまうモメントが働いているということです。歴史修正主義という相対主義の極北への対抗は、構築論という同根の歴史学では無理であるとして、事実に基づく実証主義へとねじを巻き戻しまっています。残念なことです」


 成田龍一による以上の部分にはホワイトの論考が持つ特に重要な意義が示されていると思うのだが、ここには同時にそれが実証主義相対主義の狭間で非常に難しいバランスを取らなければならない立場であることも表れている。
 ホワイトのこの書でも当然のことながら、ホロコーストが起こったことは言うまでもないとされている。しかし実際のところ今後は、「ホロコースト否定論が勝利してしまった世界」での歴史論を考察する必要性が高まっていくだろうとは思っている。





ホワイトの論考の推移

  • 『メタヒストリー』(1973)
        • 史記述は詩的な行為である。
        • 前認知的に受容され記述に規定的に作用する「歴史の場」
        • 歴史家による説明は「プロット化」による説明
        • 喩法論的アプローチ
        • 歴史学の言語論的展開・物語論的転回
  • 「実用的な過去」
          • オークショット由来の「歴史的な過去」と「実用的な過去」の区別への着目。オークショットとは逆に、「実用的な過去」の意義を強調。
        • 「歴史的な過去」:専門的歴史家による科学的アプローチによる。
        • 「実用的な過去」:人々が日常での実践で参照し用いることのできる歴史。モダニズム文学はこちらに結びつく。




本書の概要

  • 「歴史的な過去」と「実用的な過去」
    •  
        • 過去の出来事は、直接知覚したり観察することができない。歴史家たちは、過去の痕跡を研究することによって過去に接近できると考えている。しかし過去の痕跡は過去自体とはまったく別のもの。
        • 19世紀以降の歴史学:客観主義的・経験主義的な科学へ変化し、歴史叙述をレトリックおよび倫理問題から切り離した。国民国家に仕え共同体のためにアイデンティティを提供するという意味での実用性、イデオロギー的中立の標榜。→「歴史的な過去」
          それ以前の歴史叙述はレトリックに構造化され、広く人々にとって実利的なもので、「わたしたちは何をすべきか」という倫理問題に答えるものだった。→「実用的な過去」

        • 「歴史的な過去」 (historical past)
            • 専門的歴史家たちによって「本来の歴史」が何であるかが証拠に基づいて承認され、構築される。
              しかし過去は、直接観察することができずわずかな証拠しか残っていないものであって、実際はさまざまな出来事や事物の総体としてある。承認された「歴史的な過去」もそこから選択されたひとつのヴァージョンにすぎない。
        • 「実用的な過去」 (practical past)
            • 人々が日常の実践的な問題を解決するものとして利用する過去についての観念。決まった行動のモデルや経験・慣習というかたちで常に携えている。倫理的問題に関わる。
            • 歴史学が科学へ変化した同じ時期に、「歴史的な過去」とは別の歴史観念として写実主義小説において登場した。モダニズムポストモダニズム文学も「実用的な過去」に関わっている。(ホワイトはリオタールによる「大きな物語」の放棄という主張は受け入れない)
            • また、「歴史哲学」(予言的・未来予測的で思弁的な歴史叙述)(ex. ヘーゲルマルクス、トインビーなど)も、「歴史的な過去」というより「実用的な過去」を参照しているという点で、モダニズムポストモダニズム文学と共通する。

        • 歴史的な出来事
            • 歴史は普遍的・客観的実体ではない
              • 歴史自体が支配的な集団の占有物であり、抑圧を二重のものとするためのイデオロギー的な武器である
              • 「歴史」は西洋で構築されそこで意義を持つ観念。普遍的ではない。他の文化に似たものがあったとしても、究極的には異なる。
            • 出来事(event)と事実(fact)の区別
              • 事実は、記述(述定)された出来事である。出来事は、それが事実として立証されて初めて歴史に加わる。(出来事は起こるものであり、事実は立証されるもの)


  • モダニズム文学
          • 歴史叙述と文学作品の関係について

        • 歴史のナラティヴは、出来事を写実的に表象したと主張するが、あまりにも滑らかに進行しすぎている。
          実際の歴史は不規則に進行する。歴史は、包括的なプロット、あらかじめ定められた始まり・結末・目標・行き先といったものを持たない。
        • 文学は、実在した過去のうち「歴史的な過去」が扱うことのできない側面に焦点を合わせることができる。

        • モダニズム文学の特徴
            • 馴致された「歴史的な過去」ではなく「実用的な過去」を主要な対象としている
            • 時間経験の多層性を発見し、物語論的に秩序付けられた時間性を否定
            • 全知の語り手の脱構築
            • 出来事はもはや直線的因果関係では説得力を持って表象できないという認識
            • 「プロット」そのものを捨て去ることによってプロット化から歴史的な出来事を解放している
            • 現在を「歴史」として捉える特徴を持っている


        • 文学≠フィクション
            • ナラティヴ化はプロット化と捉えることができるので、ファクチュアルな(事実に基づいた)ナラティヴとフィクショナルな(架空の)ナラティヴという区別は重要性を持たない。


  • ホロコーストの表象

        • 歴史的出来事の言述に対して「それは真実か」と問うことは適切・妥当なことなのだろうか
            • 「それは真実か」という問いでは、膨大な数の目撃証言文学を正当に評価することはできない
            • 「正しさ」はコンテクストに依存し、適切さの条件により成り立つとする言語行為理論が有効
              • ホロコースト否定論者は、何かを言っただけでなく、言うことによって何かをおこなったのである。
                ホロコースト否定論者への正しい応答は「それは真実か」ではなくて、「その否定論を突き動かす欲望の根底にあるのは何か」と問い質すこと。

        • ホロコーストは唯一無二の出来事であり他と比較できないものなのかどうか
            • ホロコーストは、モダニゼーションの条件下でのみ引き起こすことが可能だった新しい種類の出来事である。

        • ホロコーストを物語ることは可能なのか。「ホロコーストを語る」ことに伴われる問題
            • ホロコーストについて語ることができるか・語るべきであるかは、一方ではホロコーストの性質、もう一方ではナレーション/ナラティヴ/ナラティヴ化の性質の結果として生じてくる問い。
            • 「語る」というのは伝統的なストーリーのかたちで提示することを意味する → 審美化・フィクション化・相対主義につながる
            • ホロコーストのナラティヴ化は、対象を認知可能なものとして扱う「馴致」の過程
            • ナラティヴ化の行為には、過去を馴致すると同時に馴致し得ないものにできる可能性もあるはず。
              「立ち去ろうとしない過去」についての感覚を純化させるには、過去をナラティヴ化すると同時に脱ナラティヴ化することが必要


  • フリートレンダー『絶滅の歳月』の精読 
        • フリートレンダーの主張
            • フィクション化はホロコーストの現実を信じることに対する脅威であり、審美化/美学化はその道徳的・倫理的意味への脅威。
            • ホロコーストには、表出し得ない「過剰」がある。

        • フリートレンダーの記述の特徴
            • ナレーションを中断してナラティブ化を阻止すると同時に、年代順に配列された記録的事実と並んで比喩的な意味のレベルをつくり出すさまざまな文学上・修辞上のジャンルが豊富にある。(エピグラフ、エクフラシス、逸話、注釈、フィグーラ、星座的布置、アイロニー

            • 中動態(バルト/バンヴェニスト
              • フリートレンダーの語りの様式は、書くという行為そのものの内部に自らを置く「中動態」の語り方。何が語られたりしているかということと、それがどのように語られているかということを区別できないようにしている。
            • 脱ナラティヴ化・脱プロット化
              • フリートレンダーが言及しているのは日記の作者たちの「証言」ではなくて「声」であり、「言明」ではなく「叫び」「囁き」。
                「声」を持った発話の様式で語りはするがナラティヴ化することのない歴史叙述の新しい可能性の条件をつかんだ。(脱ナラティヴ化)
                著者自身が、ホロコーストの生存者でありながら、出来事の流れを脱ナラティヴ化・脱ストーリー化している。
              • 全体として納得のいく道徳的・倫理的結末を迎えるようにはプロット化されていない。通常の物語論的な期待を裏切る。
                フリートレンダーは、ホロコーストについての歴史を、ナラティヴ化することなく(つまり古典的なプロット構造を用いることなく)語っている。
            • 「星座的布置」ベンヤミン
              • ゆるい年代順的パターンによる「星座的布置」のテクニックを使用(概念よりも言語イメージを優先するやり方)
                各章の標題が日付だけであることは、ホロコーストを脱ドラマ化する効果を生む。
                主題をひと続きのシーンとしてではなく、「星座的布置関係」として提示することで、歴史をプロット化しようとする傾向に抵抗する。記述が馴致されるのを防ぐ「違和」「不信」の効果を生み出す。中心的な主題の展開を表象するようにはプロット化されていない。
              • 時間によって整序されていないテキスト。書くという行為は必然的に単線的なかたちをとることになってしまうが、フリートレンダーは、時間的な「前と後」の軸から、言述の「表面と深部」の軸へ向かせるやり方を採った。
                テクスト間の関係は、同等性と同一性よりも、相似性と隣接性によっている。様態的(modal)なテキスト。






 

 イーガン “シルトの梯子”



“Schild's Ladder”
 2002
 Greg Egan
 ISBN:4150121605



シルトの梯子 (ハヤカワ文庫SF)

シルトの梯子 (ハヤカワ文庫SF)






 遠未来ハードSF長編。
 ようやく出た翻訳版。原本発行は2002年で、『ディアスポラ』よりも後、『白熱光』『ゼンデギ』そして〈直交〉シリーズの前。
 もちろん易しい内容だなんてとても言えないけど、一応、現実宇宙の延長だし登場人物たちも人類の末裔ではあるので、〈直交〉シリーズと比べるとだいぶわかりやすいと思う。
 現在から2万年以上の未来、相対論と量子論を統合した「量子グラフ理論」という架空の物理理論が確立している時代。この理論に基づいて局所的に現宇宙とは別種の真空状態をつくろうと実験したら、それが予想外に拡張し、光速の半分の速度で既存宇宙を飲み込み始めて人類の危機!……という話。

 作中の時代での物理学はいわゆる多世界解釈に沿っていて、デコヒーレンスの概念が特に説明上の要所となっている。たとえば量子的重ね合わせがマクロな観察で古典力学的に見えてしまうという問題も、それは一方の状態をデコヒーレンスの結果として見ているからで、実際は多世界に分裂しているのだ、というように説明される。量子グラフ理論はこのような考え方を持って2万年もの間、説明基盤としての有効性を維持してきた。しかし作中で起こるオルタナティブな真空による侵食という事態によって、その普遍的な妥当性が揺らぐ。結果、科学者たちの再検討を経て、量子グラフ理論もまた多世界がデコヒーレンスした後のひとつを見ていたに過ぎなかった、ということが判明する。
 状態の重ね合わせとデコヒーレンスによる選択という構図が説明理論の適用範囲を拡張する……ということが入れ子状に重ねられていくところがおもしろい。この累進によって宇宙のあり方の可能性が広げられ、また、15節以降ではそうした異質な世界の描写によって物語の様態も新たな姿へ引き上げられていく。
 インフレ的展開は『ディアスポラ』にも通じるものがあるけれど、量子論の分裂と収束というトピックに着目している点では『宇宙消失』に近い。『ひとりっ子』に登場した「クァスプ」というデバイスも絡ませて、自由意志と決断の意義というところにもつながっている。


 物語は冒頭のダイヤモンド・グラフに始まり、最後はこれを見出して終わる。閉じるテクストの円環構造。つまりはループ、まさしくシルトの梯子。
 ループ変数の話で言えば、では物語の経路全体をたどってループの始点に戻ってきたときに変わったものは何なのか、ということになるのだろう。ループをたどる経路というのは、物語それ自体のことでもあるし、作中のキャラクターたちがおこなう「旅」のことでもある。旅は登場人物たちにもキーワードとして語られているけど、彼らの旅は並大抵のものではなく、時間的にも距離的にもきわめて遠大。法則すら異なる別宇宙にまで至るほどに。もはや測ることもおぼつかない遠路を経て行き着く物語の最終地点、しかしたどり着くとそこは始まりの場所であったことを読者は知る。始点と終点に差分があるとすれば、それこそは物語を通した読者の体験に見出されるものと言えるのかもしれない。
 物語が語る内容(作中で示される物理学的モデル)と物語の全体構造が重なり合う小説。これはイーガンの作品のなかでも構成が相当きれいにできているものではないかと思う。








 

 かっぴー “左ききのエレン 7,8,9,10巻”






左ききのエレン(6): バンクシーのゲーム 左ききのエレン(7): 光一の現実 左ききのエレン(8): 物語の終わり 左ききのエレン(9): 左ききのエレン・前 左ききのエレン(10): 左ききのエレン・後







 完結したので感想をまとめておく。*1
 途中まで読んだ段階で書いた内容*2に、根本的な意味で付け加えるものはない。
 ラストとそれに至る過程は期待通りに完璧だった。


 台詞内容や物語展開、伏線回収といったところのクオリティの高さ、あるいは構図やコマ割りで見られる工夫といったような当初から備わっていた良さは、話数が進むに連れてより深みを増している。基本的な絵の技量についてはやはり触れないわけにはいかないところだけど、それも序盤と比べると明らかに洗練されたものになっている。
 この漫画、おそらく作者の中でまず描きたい絵が明確に浮かんでるものなんだろうなというのは全編どこを見てもはっきり感じるところ。問題はそれを漫画として具現化するときにどこまで手を入れるか、つまり仕上がりの段階の話。ただ、この絵でも充分に伝わってくるわけだし、そこを今以上に求める必要もないのでは……と思わないこともない。今、ジャンプ+で別の漫画家により絵を描き直された再連載が始まっているんだけど、自分としてはもうこの原作の絵だけで全然満足している。


 終盤に向けた構成として、ある特定の日時に向けたカウントダウンが折に触れて示され、そこに向かってすべてが収束するように組み立てられているというのが大きな特徴。あらかじめよく考えられた計画に沿って描かれた物語だということが、ここからも感じられる。
 予告された日時が皆既月食を指しているということは、最終巻で実際に訪れるまでわからない。これは主人公光一にとっての極致点。一方、もうひとり別の重要人物であるあかりにとっての究極の瞬間も、そこからかぎりなく近いところに位置している。時間的に若干ずれながらふたつの極点があって、それらを挟んで全体のクライマックスがあるという構成。そして物語は、この特別な瞬間を超えてまた時を進めていく、というかたちで描かれる。
 8巻末尾p299から始まる一連のことばが作品全体のテーマを凝縮した部分であるわけだけど、その前にあるあかりのモノローグ、

今日燃え尽きる事が天命だとしても―― 私は従わない
だって決めるのは 常に私なんだから


 ということばも、実はこれと重なり合うものになっている。
 天才と凡人というこの作品の基盤のような対比のなかで、あかりは天才側にいるんだけど、でもこのことばは凡人側から見た景色にも当てはめることができて、p299以降のフレーズにも劣らない強くポジティブなメッセージとして受け取ることができる。
 前後するエレン/さゆり/ルーシーのハグも、これを別の側面から補うように読者へ届けられ、つまるところ、あらゆる画角で万感の思いあふれる大団円が訪れるということ。
 精緻に計画され、結果として過不足ない表現によって、適度な長さできれいに完結した漫画。






6〜10巻でラスト以外の心に残ったシーンのメモ

  • 10巻
    • “絶頂点”
  • 9巻
    • ブランディングのオリエン
    • ウィーク・デイの中黒を消すところ(これがまさしく広告クリエイターの仕事だということが示されている)
    • オーディションでのさちよの舵取り
    • 「一番幸せだった時を思い出すように」
  • 8巻
    • C.A.T発足シーン
  • 7巻
    • 甘い夢よりも痺れる現実
    • 線を引くシーン
    • 番外編『コピーライターのフレーム』
  • 6巻
    • 空が青くなるより速く――

……と書き出してみたけど、実際はもっとある。たぶんどの回もだいたい好きなシーンがある。






 

*1: とはいえ「第一部」ということではあるらしいが。

*2: http://d.hatena.ne.jp/LJU/20170416/p1

 市川春子 “宝石の国”





 アニメをきっかけにして原作の最新巻まで読んだ。原作は8巻まで出てて、佳境に入ってきている。
 漫画版を最初アフタヌーンで見かけたときは絵がわかりづらいと思ってスルーしてたけど、アニメ版見てみたらおもしろかったので、あらためて原作も見たら良さがわかった。原作絵はどうしても動きが把握しがたいところが多々あるけれど、どれも一枚絵イラストとして成り立つような洗練された構図で描かれている。各話の最後は必ず大コマで描かれるのも特徴。台詞や間の取り方にも味がある。また、「宝石」という存在には性別がなく、上半身は少年で下半身は少女をモチーフとしているというのも造形およびジェンダー観としておもしろい。


 作品の魅力は主に次のふたつの軸から来ている。
 ひとつは、主人公が変化していくという点。といっても、成長や心の変遷といったものとは違って、どちらかというと身体的な変化。
 主人公が属する種族は、不老で長命、幾度砕かれても再生するような存在。同じような不死者たちが幾百・幾千年もの時を重ね、狭いコミュニティの中で大きく代わり映えない生活を繰り返している。しかし作中では、紆余曲折により主人公はイレギュラーな変化を蒙り続ける。死なないまま、様態や能力が変わり続けていく。
 主人公がこれほど変化する作品はめずらしい気がする。自然な成長や外観のバリエーションといったものならあるにしても、構成要素や身体組成が変わるというのは。不死種族だからこそ身体の一部が入れ替えられるといったことが可能になっているわけだけど、この「不変であること」と「変化すること」の混交が、物語の大きな骨格を成している。
 もうひとつは、謎解きの物語構造。
 人類の文明が滅びた世界で、見た目は人のようだがまったく異なる種族が住み、正体不明の敵が襲いかかる日々。なぜこのような種族が生まれたのか、敵の目的は何か、この世界の背後にはどのような理由が隠されているのか。敵、秘密、伝承、忘却といった事柄を織り成しながら、探求の物語が綴られる。
 謎を秘めたこの世界は、独特の雰囲気を醸し出している。ひとつの島、ひとつの建物しかない物寂しい景観。文化の絢爛もなく、同じような日々と季節が繰り返される生活。キャラクターたちのやり取りにはユーモアがあふれているけれど、総体として憂いや倦怠、哀愁といったものを感じずにはいられない。こうした雰囲気のすべてが、解かれるべき対象として広がっている。

 このふたつの軸は表裏一体でもあり、これまでの変わることのない生活と、謎が明かされていく過程とが絡み合って、主人公の変化に呼応している。
 主人公が変わり続けていく果てにそれでも変わらず残るものがあるのかどうか、というところが今後問われていくことになるはずで、原作はおそらくかなり結末に近付きつつあるけれど、まだ全貌は見えてきていない。






アニメ版



 全面的に3DCGで制作されている。
 宝石たちは頭部以外は同一の3Dデータが使われているらしいけど、単に省力化というだけでなく、宝石たちが同じ身体形状を持っているという原作の設定とも合致していたりする*1
 フルカラーで、光彩の表現がしやすいというのはアニメの利点。光を引いて走るシーンとかダイヤモンドの髪とか。(アニメキャラ一般でよくある「髪の色が多彩」というのが、この作品だと宝石の設定から自然に導かれる。)

 声優についても特筆すべきところ。
 とくにフォス役の黒沢ともよ。非常に個性的ではあっても必ずしも技能的な声優だとは今のところ思っていないんだけど、でもフォスを演じるのにはこの上なく適している。

 シリーズ構成については、原作未完状態で仕方ないとはいえ、かなり中途半端なところで終了となったことは否めない。もう少しで原作が完結すれば、それをもって2期がつくられるだろうとは思うけれども……。

 OPの映像と曲も良かった。作詞作曲はハイスイノナサの照井順政。






漫画版


宝石の国(1) (アフタヌーンコミックス) 宝石の国(2) (アフタヌーンコミックス) 宝石の国(3) (アフタヌーンコミックス) 宝石の国(4) (アフタヌーンコミックス) 宝石の国(5) (アフタヌーンコミックス) 宝石の国(6) (アフタヌーンコミックス) 宝石の国(7) (アフタヌーンコミックス) 宝石の国(8) (アフタヌーンコミックス)



8巻の感想
 話が大きく進んだこともあり、全体的に良かった。
 絵としても印象に残るものが多かった。たとえば月の都市の見開きのシーン。

 この巻でかなり明らかになったところがある。
 すべての謎の答が明らかにされたかどうかはわからない。月人が言っていることに虚偽もしくは陥穽がある可能性も示唆されている。
 とはいえ「祈るための機械」というのは納得いくし、全体の枢要を成す設定にはふさわしい。よく考えられた物語だと思う。



不死と変化、およびアイデンティティについて
 砕かれても破片をすべて集めれば元に戻せる。体を失うとその分だけ記憶も失われる。
 主人公は異なる素材の融合に適した特性を持つため、失った体を別の素材で補うことができている。そうした補填を何度かおこなった結果、今では体の過半が元の自分以外の組成へ入れ替わった状態になっている。
 つまり主人公の身体変化の段階すべてで、他者・外部が関わっているということになる。他種族(貝殻とアゲート)、他の鉱物(金と白金)、同族の他者(ラピス・ラズリ)、他種族のテクノロジー(真珠)。これらが仏教の「七宝」に沿っているという指摘をいろいろ見かけるけど、たぶんその通りだと思う。

 身体的変遷を通して、外観も能力も変わっている。1巻と8巻のフォスを見比べたとき、知らなければ同じキャラクターだとはとても思わないだろう。
 内面も変化している。記憶が失われているし、性格も同じようでいてやはり変わっている。
 では変わっていないところは?
 他の宝石たちには、見た目は変わってもやっぱりフォス、みたいに言われていたりする。読者から見てもそう思える。
 ……でもほんとうにそうなのか。この場合に維持されている同一性とは何なのか。
 特に、ラピスが補完された後のフォス。口調や態度なんかは以前とあまり変わっていないようなところもある。だけど実は変わっていないのはそれだけだったりするなんてことはないのか。たとえば性格は? 今でもシンシャのことは気にしているという点は変わっていないっぽい。でも先生に対する感情はもう変わってしまっている。
 ラピスの知性が加わったことも大きく影響している。思考の速度や質が変わる。情報取得量と知覚範囲が変わる。
 組成配分から言っても、今のフォスが人格としても最初のフォスから半分以上違ったものになっているということは確かだと思う。かろうじて自我の同一性は保たれているとして、しかしフィクションにおいてそれに何の意味があるというのか。
 宝石たちとインクルージョンの関係もよくわからないものがある。「私たちとインクルージョン」とはっきり区別されている以上は別のものなのだろうけど、宝石たちの精神がどこに基盤を置いているのかは微妙。宝石には内臓器官といったものはなさそうで、宝石の精神を駆動させているのはインクルージョン? 宝石たちとインクルージョンの関係は、脳神経とその活動様態を本質として人間の精神や自我を幻と捉えるような考え方を象徴的に表現している気もする。
 髪型も何度か変わっているのはポイント。
 アンタークのエピソードのあと自分からショートにしてるし、ラピスを取り込んだあともレッドベリルに髪型を変えられてる。
 髪は肉体の一部であるとはいえ、記憶含有量もインクルージョンも少ないとされているし、髪型を変えても組成や性質には大きく影響しないはず。ではそれが変わることは何を示すのか。
 通常の物語だったら髪型の変化は内面の変化を示す指標になる。でもこの物語の場合、体の組成が劇的に変わるという設定が髪型程度の変化なんて超えてしまう。
 服が変わることと似たようなものなのだろうか。現実世界なら髪や服を変えることは社会生活上で意味があるけれど、この作品世界では髪型はほとんど変わらないし、服も睡眠や冬眠といった定型的な状況を除いてあまり変わらない。一方、月人のエクメアは何度も外見を変えるというように対比される。そうしたなかでフォスが髪型を二度変え、月で服を変えたことは際立っている。

 変化し続けるフォスというキャラクターを成り立たせるもののなかで最も重要な項目を挙げるなら、それはシンシャおよび先生との関係。
 アンタークやゴーストには後悔の念がたびたび向けられているけれど、シンシャと先生に対してはもっと異なる特別な感情が継続して示されている。このふたりは変化し続けるフォスと対照的に不動。そうであるからこそフォスのアイデンティティが辛くも維持されているというのはあるかもしれない。







 

*1:JDNインタビュー フルCGアニメーションの限界に挑戦!TVアニメ『宝石の国』スタッフが語る、かつてない意欲作ができ上がるまで https://www.japandesign.ne.jp/interview/land-of-the-lustrous-1/






music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell