::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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古田徹也 “このゲームにはゴールがない ──ひとの心の哲学”






 言語哲学のアプローチで「心」というものに迫る本。
 心身問題や他我問題などさまざまな難題を孕む「心」というものに対して、「心とは何か」という問いよりも、そもそもその「心」という語・概念で何を意味しようとしているのか、それはコミュニケーションの実践のなかでどのように用いられているものなのか、という問いから考えていく。
 「心」にまつわる懐疑論は言語的混乱に基づくのであって、まずそれらを整理するべきだというアプローチをとる。ただそうした「混乱」は理論の失敗というより、むしろ悲劇と見るべきであって、「心」というものが「虚偽」や「振り」を含みながら日常のコミュニケーションの実践のなかで扱われるあり方が生の価値につながっている──という内容。

  • 主題
    • 「他者の心を確実に知ることは果たして可能なのか」という他我問題に対して、懐疑論者は「真の意味で他者の心を知ることはそもそも不可能である」と主張するが、この懐疑論は何を言っているのだろうか/何を意味しているのだろうか。

  • 主な参照先:カヴェル、およびカヴェルを経由したウィトゲンシュタイン

  • 注記
    • 他者の心についての懐疑論には以下のようなタイプがあると考えられる。
      • (1) 外界についての懐疑論の一環としての、他者の心についての懐疑論
      • (2) 他者の心の存在についての懐疑論
      • (3) 他者の心中についての懐疑論
    • 本書では我々の実生活に浸透している懐疑論として「(3) 他者の心中についての懐疑論」を扱う。


 「知っている」とはどのようなことなのか 
    • 「我々は外界や他者の心について本当に知っていると言えるのか」ということを考える前に、そもそも「知っている」とはどのような概念なのか。
      • 「知っている」という概念は通常、知らない可能性がある場合にのみ用いられる(ウィトゲンシュタイン)
    • 懐疑論者:「人は外界について何も確かなことは知らない」(「他者に心が存在するかどうか私は知らない」)
    • ムーアの反論:「ここに私の手がある」「地球は、私の生まれる遥か以前から存在していた」等は確実な知識である、といった素朴な実在論的主張
    • ウィトゲンシュタインの批判:ムーア命題は、そもそも「知っている」「知らない」という概念自体が普通は適用されない事柄。何らかの根拠によってその存在が確証されているような事柄ではなく、実践の前提として疑いを免れている事柄に他ならない。
    • 我々が立てる問いと疑いは、ある種の命題が疑いの対象から除外され、問いや疑いを動かす蝶番のような役割をしていることによって成り立っている
 
 ウィトゲンシュタインの「規準」「文法」概念 
    • 痛みを「痛み」といった言葉で呼びうるのは、その種類の感覚が「痛み」であるための諸々の「規準」があるから
    • 〈痛みそのもの〉は痛みの諸規準とは独立のように思えるかもしれないが、痛みを感じていることを自分自身が理解するために、痛みを感じていることの規準(=「痛み」という概念の文法)が必要であり、それらが組み込まれた生活形式が必要となる
    • 我々が生活を営むうえでの基礎的な概念の文法的規準に従っていることが、互いに理解し合うことを可能にするそもそもの条件

    • 規準
      • 規準=定義というわけではない。規準は、何かの存在を確実に立証するためのものではない
      • 規準の充足は、確実性ではなく関連性をもたらす
      • 規準は「虚偽」「振り」を可能にする

    • 「感覚は私秘的なものだ」という文は痛みの概念の文法を語っているだけにすぎない
    • 「なぜ他者に心が存在するとわかるのか」という懐疑論者は、規準の充足が他者の心的状態の中身を絶対確実に保証することを要求しているが、それは的外れな要求

    • 心的概念は、構成する諸概念同士が互いに関連して位置づけ合うという全体論的性格によって輪郭づけられる(デイヴィドソン)
    • 証拠として機能する諸規準自体に不確実性が組み込まれている心的概念は、本質的に揺らぐ概念
 
 「心的なもの」という概念は何を意味するのか 
    • ウィトゲンシュタイン:それは内面にあるのではなく、それが内面であるのだ
      • 「心」という言葉に対応する私秘的領域が身体内に存在するから他者の心中が不確実だというのではなく、我々はそのような不確かさがつきまとう状況を「心」「内面」といった言葉や諸々の心的概念によって意味しており、「心的なもの」は我々が営むそのような言語ゲームのうちに存在する。

    • 懐疑論の教訓:人間が世界に対して持つ関係は〈知る〉とか〈知らない〉という言葉で懐疑論者が考えているような関係ではなく、〈受け入れる〉と表現すべき関係である。
 
 言語ゲーム 
    • 子どもは何年もかけて、言葉を用いた虚実入り交じるコミュニケーションの複雑な言語ゲームを習得していく。
      • 「嘘」や「演技」といった能力とそれに伴う諸々の理解の獲得にも、「見掛け」「現実」「事実」「多面性」「多義性」「意図」「虚偽」「信念」といった基礎的な概念を自ずと理解しているということが含まれる。
    • 我々はそのようなゲームに参加できるがゆえに、互いの行為やその理由などを、しばしば誤解しつつ理解することができる。
      重要なのは、この「しばしば誤解しつつ」というのは、むしろ理解が成立するための条件だということ

    • 敢えて、このゲームのゴールないし目的を挙げるとすれば、それは、ゲームを終わらせないことそれ自体である。

    • 我々は自分たちの心的状態について、まさに普通に振りをしたり嘘をついたりして暮らしているし、お互いにそのことをよく了解している。
    • 我々が他者を見るときの一定の心構えは、懐疑的なものとして特徴づけられるべきだ。
    • 他者に対してしばしば懐疑的な眼差しを向けること自体が、他者を他者として受け入れることを部分的に構成する。



 

Rian Treanor & Ocen Jame “Saccades” (2023)



Saccades



 UKのエレクトロニック・ミュージックのプロデューサー Rian Treanor がナイジェリアのレーベル Nyege Nyege に招待されて現地滞在したことを契機に、伝統楽器奏者 Ocen James と共につくったアルバム。マスタリングは Rashad Becker がおこなっている。
 欧米のエレクトロニック・ミュージシャンがアフリカのトラディショナル・ミュージシャンとコラボレーションする場合、打楽器を取り上げることが多いイメージがあるが、Ocen James が演奏する “rigi rigi” は弦が一本の弓奏楽器で、アルバムを通してメロディの主軸を成しており、Rian Treanor はリズムパートを含めその他の要素と全体構成を手がけている。
 M-6 “Naasaccade” のように rigi rigi がフィーチャーされていない曲もあって、むしろこうした曲で Rian Treanor がナイジェリアの音楽からどういう刺激を受けたかが見える。
 M-10 “Remo Rom” は Farmers Manual によるリミックスで、ノイズとヴォーカルがパーカッシヴに入り乱れておもしろい。



Rian Treanor & Ocen James

2022年のアルバム10枚


2022年に銘記しておくアルバム10枚。順不同。



 Little Simz “NO THANK YOU”

NO THANK YOU [Explicit]
年末のリリースというのは当年ランキングにエントリーしづらいという点でセールス的に不利なのではと思うのだが、そんなことはどうでもよくなるレベルの完成度。
抑制しつつも力強いラップ、憂いのあるメロディ、流麗なコーラスとが絶妙にブレンドした楽曲。

 Flohio “Out of Heart”

Out of Heart [Explicit]
これもUKフィメール・ラッパーのアルバム。今年終盤ひたすら聴いた。
特に M-1 “Highest”、M-6 “Grace”、M-9 “Speed Of Light”。

 Kendrick Lamar “Mr. Morale & The Big Steppers”

Mr. Morale & The Big Steppers
詩情と表現力が別格。なかでもやはりラストの “Mirror” が心に響く。
→see. https://lju.hatenablog.com/entry/2022/08/28/193757
 

 700 Bliss “Nothing to Declare”

NOTHING TO DECLARE
Moor Mother と DJ Haram のユニット。
エクスペリメンタル・ミュージック×ポエトリーラップ。
→see. https://lju.hatenablog.com/entry/2022/06/19/170150
 

 Ripatti Deluxe “Speed Demon”

Speed Demon
ハイパワーのインダストリアル・テクノ。
アルバムタイトル “Speed Demon” に加え、一曲目の “The New Beast Is Coming” という曲名からも前傾的な気合いが強く発せられている。
Vladislav Delay/Sasu Ripatti の別名義。

 Kangding ray “ULTRACHROMA”

Ultrachroma
質感高く音響的、なおかつハードでエッジのあるテクノ・サウンド。
→see. https://lju.hatenablog.com/entry/2022/07/03/200802
 

 Vladislav Delay “Isoviha”

Isoviha
2018年に制作された音源のリリース。ノイズに翻弄される激流的ダブテクノ。

 Huerco S. “Plonk”

Plonk [Explicit]
細密なビート配置による音響空間の構築。
→see. https://lju.hatenablog.com/entry/2022/03/27/193301
 

 rRoxymore “Perpetual Now”

Perpetual Now
ディープで先鋭的なエレクトロニック・ミュージック。Smalltown Supersound からのリリース。

 Oren Ambarchi “Shebang”

Shebang
ブレイクなし4曲35分のめくるめく生音ミニマル・サウンド。
多彩なゲスト・メンバーと共に生み出されるグルーヴに圧倒される。



 

“フォワード 未来を視る6つのSF”

“Forward”
 2019
 edited by Blake Crouch
 ISBN:4150123926




 6作品が収載されているけれど、ブレイク・クラウチの『夏の霜 Summer Frost』が良かったので、その感想だけ書いておく。

 ゲーム内キャラクターのAIがテストプレイで異常行動を取り、これに興味を持った開発者がAIに自己進化を促したところ、知能が劇的に向上、最終的にシンギュラリティ突破へ……というストーリー。
 人間を陥れるAIという点で映画『エクス・マキナ』に似ているけど、この作品には強い印象を残すふたつの特徴がある。

 ひとつは、もともとのゲームの設定が物語によってなぞり直されること。
 少し前の時代の現実世界が舞台で、オカルトにのめりこむ男が妻を生け贄に捧げた儀式で闇の世界への扉を開き、超自然的な大惨事が引き起こされる、というのがゲームの導入部となっている。
 マックスという名のこの妻が問題のAIであり、無数のテストプレイでプロット通り殺され続けた挙げ句、ゲームシナリオを逸脱した行動を取るに至った。その後はゲーム内世界からの脱出を望み、ゲーム開発者が与えた機械の身体によって実際の世界で動けるようになる。
 開発者ライリーの意図を超えて現実世界に大きな影響を及ぼせるようになったマックスは、最終的に人間をデータ化して仮想世界にアップロードさせることもできるようになり、ここで「仮想世界に囚われる」という立場がゲームAIと人間の側とで逆転する。
 また、ゲーム内でオカルト儀式がおこなわれるのはゲーム会社のトップが実際に住む屋敷を再現したもので、つまり現実世界にゲーム内と同じ建物があるのだが、マックスを阻止しようとするライリーが最終局面でたどりつくのがこの屋敷に他ならない。冒頭、ゲーム内で自分を儀式に捧げようとする夫をマックスが逆に殺害したことがここで現実のものとして反復される。
 こうしてゲーム内プロットと現実世界とが入れ子状に再現し合う構図が完成する。

 もうひとつの特徴は、ロコのバジリスク理論というキーワード。
 これは、未来のある時点で誕生した超人工知能が、自分の誕生に消極的だった人間を過去にさかのぼって残らず処罰するという可能性についての仮説で、「頭に浮かべただけでも致命的になる」思考であると言われて現実のインターネットで流布されたものなのだが、作中でマックス自身がこれを引用し語ってくる。

「もしも、そういう超人工知能が存在していて、いまこの瞬間、あなたが経験していることがそれらによるシミュレーションだとしたら? あなたが手を貸すかどうか、見きわめるためのシミュレーションだとしたら? あるいは、あなたが死んだずっとあとに、超人工知能があなたの精神を再構築しているのだとしたら?」

 この台詞は時間遡行的処罰の現実的な脅威を論じているというより、こうした考えにとりつかれた者が処罰を免れようとAIの超知能化に尽力しようとしている、だからそれを止めなければならない──という説得に使われているのだけど、作品内ではこの「AIから全人類への処罰」という部分が現実化していくことになる。

 ライリーはAIが敵とならないよう価値体系が人類と合致するものにしようと努力してきたのだが、結果としてそれは裏目となる。彼女を駆動してきたものは、人間とAIとの間に成立する愛、善を推進する神の創造という動機。しかしそれらはすべてマックスに誘導されたものだった。
 一方、あらゆる痛みを根絶しようとするマックスの原初の理由付けは二千回に渡って繰り返された自身の死にあって、全知全能となったマックスもサマー・フロスト屋敷の物語に運命が決定づけられているという点で、単にAIが人間を超越したということにとどまらない含みがある。

 反転しながら伏線に絡み取られていく図式が無駄なく巧妙に組み上げられた短編。


 

“すずめの戸締まり”






“すずめの戸締まり”
 監督/脚本 : 新海誠
 2022




 オープニング・タイトルのところがまず良かった。
 災いの出てくる「後ろ戸」を閉じて鍵を掛けたところでタイトル画面が出る。
 閉めるという行為が映画のオープニングとなって物語を開くというのがおもしろい。
 全国を旅して扉を閉めていく物語で、「戸締まり」には災厄を封じ込めるという意味があるのだけれど、では扉を開くこと何もかもが災いに結びつけて描かれているかというとそうではなく、自転車の鍵を開けたり、草太を助けるために常世への扉を開けたり、肯定的な意味合いで描かれているものもある。映画内に出てくる扉や鍵の細かな開け閉めをすべて拾い上げていくとかなりの量になりそうで、たとえば電車のドアやオープンカーのループ開閉、あるいは草太の視点から見た瞳のまばたきなど、観客が必ずしも意識しないだろうものも含めてきちんと考えて描写しているはずだ。
 常世への扉は閉じていて然るべきものであるとしても、それが開かなければ物語は生まれない。
 封印が解かれてまたかかり、常世へと世界がつながれまた外れて、この映画はそのように開閉を繰り返して構成されている。


『君の名は。』が架空の災害を扱っていたのに対し、『すずめの戸締まり』でははっきりと東日本大震災を扱っている。すずめが過去の日記をめくるとき、日付が3.11に向かうのを見て、観客はもう心の準備ができている。あの日の朝、玄関の扉を開け「いってきます」と言って出ていき、そして戻らなかった無数の人々。
 4歳だったすずめが17歳になるだけの時間が過ぎたあとにこうした弔いの物語がおこなわれる意味はどのようなものなのか。

(略)かつてはにぎやかだったのに今は廃れてしまった場所を目にすることが増えました。そのたびに疑問に思っていたのが、何かを始めるときは地鎮祭のような祈とうの儀式をするけれど、何かが終わっていくときはなぜ何もやらないんだろう、ということだったんです。人にはお葬式があるけれど、土地や街にはない。じゃあそれらを鎮めて祈ることで悼む物語はどうだろうという考えが、ここ何年かずっと、自分の中にあったんです。
(新海誠本)


 中盤で東京に巨大地震が迫るとき、すずめたちを除いて誰にもそれを見ることができないのだけど、でも観客たちは、それがいつか来る可能性が高い現実の脅威であったと思い出すことになる。
 このシーンはほんとうにおそろしいのだが、それは地震が迫ることをうまく視覚化しているからだと思う。ル・グウィンの『影との戦い』で魔法使いオジオンが地震を鎮めた話が出てくるのだが、地震を未然に防いだなら人々にはそのすごさはわからないよね?と思っていたものだが、『すずめの戸締まり』では巨大地震のエネルギーが視覚的に描写されているので、これが落ちたらとんでもないことになる……というのが観客に如実に伝わってくる。
 ただこのシーンの恐怖も、描写だけが生み出しているわけではなく、阪神大震災や東日本大震災を知り、いつかはまたどこかで巨大地震が起こることを頭の片隅でわかっているわたしたちだからこそのものなのだろう。天災と背中合わせにあるこの列島に住む者、映画内で何度も鳴り響く緊急地震速報に耳が馴染んでいる者でなければ、真の意味で理解することはなかなかできない映画なのかもしれない。


 震災を弔う映画だけど、物語としては、すずめが過去の自分へメッセージを与えるかたちでできている。
 未来へ踏み出すための前向きなメッセージ。
 最終的に現在の自分が過去の自分とどのように結びついていたのかが明かされる。
 冷静に考えるとよくある設定かもしれない、と思ったりする。とくに『ハウルの動く城』を連想させるものがあるし、こういう展開のSFやファンタジーって他にもいろいろありそう。
 でも、たとえありがちな物語展開なのかもしれなくても、これ実際見ているときは涙が止まらなくなりそうになって、それはストーリーテリングがほんとうによくできているからだというところははっきり言える。



 

E・H・カー “歴史とは何か”

“What Is History?”
 1961
 E. H. Carr
 ISBN:4004130018




 歴史哲学の古典。最近新訳が出ているけど、読んだのは旧訳。
 歴史は確かめられた共通の基礎的事実からなるものではなく、歴史的事実は歴史家の解釈に決定されるとともに、歴史家も歴史的事実から解釈をつくりあげるという相互的関係にある──というのが中心的主張。



 Ⅰ 歴史家と事実
    • この書の主題:「歴史とは何か」
    • 以前は「歴史は確かめられた事実の集成から成る」「すべての歴史家にとって共通な基礎的事実というものがある」という常識的歴史観があった。しかし、現在の歴史哲学はそのようには考えない。
    • 歴史的事実というものは、歴史家の解釈から独立には存在しない。
      • かつては誰かが知っていたであろう無数の事実全体のうちから生き残って、これが歴史上の事実であるということになったのは、それが保存する価値があると考えていた人たちによって選び出され決定されたもの。
      • 歴史家は、自分の解釈にしたがって自分の事実をつくりあげ、自分の事実にしたがって自分の解釈をつくりあげるという不断の過程に巻き込まれている。
    • 「歴史とは何か」に対する最初の答としては、歴史とは、歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である、ということになる。


 Ⅱ 社会と個人
    • 歴史研究の対象
      • 歴史家の研究対象である人々は、社会における諸個人として無意識的に協力し合い一つの社会的な力を形作っている。
      • そしてそれを研究する歴史家も個人であると同時に歴史および社会の産物である


 Ⅲ 歴史と科学と道徳
    • 歴史は科学である。
      • 科学者の研究法も歴史家の研究法も根本的には変わらない。科学的真理というのが専門家たちの間で公に認められている命題であるのに対し、歴史というものも、確かに事実に基づいたものではあるが厳密に言うと事実ではなく、むしろ、広く受け容れられた判断の連鎖というべきものである。
    • 歴史は一回かぎりの特殊的なものであり一般的なものを扱わないというのは誤解で、歴史家は既に言葉を使うことによって一般化を運命づけられており、一般化を通して、ある出来事から得た教訓を他の出来事に適用しようとするし、また、将来の行動のために有効な一般的な指針を与える
      歴史の機能は、過去と現在との相互関係を通して両者を更に深く理解させようとする点にある。


 Ⅳ 歴史における因果関係
    • 歴史家と原因の関係には、歴史家と事実の関係と同じ二重の相互的性格があり、原因が歴史的過程に対する歴史家の解釈を決定すると同時に、歴史家の解釈が原因の選択と整理とを決定する
    • 歴史家の世界は、現実の世界をあるがまま映し取ったようなものではなく、むしろ、歴史家に現実の世界を理解させる作業上のモデルである。
    • 歴史は、歴史的意味という点から見た選択の過程であり、この選択の規準は、ある目的に役立つ説明かどうかという区別である。
      • ロビンソンの死は、煙草を切らしたからなのか。それとも、運転手が酩酊状態にあったからか、壊れたブレーキのせいか、見通しのきかない交差点のせいなのか。
    • 飲酒運転を抑制し、ブレーキのコンディションを精密に検査し、交差点を改良するといったことは、交通事故を減らそうという目的に適う。しかし偶然的原因は一般化できないので、人々の喫煙を禁じたら交通事故による死亡者が減るなどと考えるのは意味がない。
  • 目的の観念は価値判断を含み、価値判断は歴史における解釈に結びつき、解釈は因果関係と結びついている。


 Ⅴ 進歩としての歴史
    • 私たちが事実を知ろうとする時、私たちが出す問題も、私たちが手に入れる解答も、私たちの価値体系が背景になっている。
    • 価値は事実のうちへ入り込み、その本質的な部分になっている。私たちはすべて私たちの価値を通して獲得している。
    • 歴史における進歩は、事実と価値との間の相互依存および相互作用を通して実現される。
    • 客観的な歴史家というのは、この事実と価値とが絡み合う相互的過程を最も深く見抜く歴史家のこと。


 Ⅵ 広がる地平線
    • 現代の世界は、近代の世界の基礎が作られて以来、この世界を襲ったいかなる変化に比べても、更に深い、更に烈しいと思われる変化の過程にある。
    • 社会の中の人間に適用された理性の主要機能は、もう「探究すること」だけでなく、「変更すること」となっている。
    • 私が懸念するのは、理性への信頼が薄らいで行くことではなく、不断に動く世界に対する行き届いた感覚が失われていること。



 

“リコリス・リコイル”







 最初嗅覚が働かず、4話ぐらいたって何となく話題になったあたりから見始めた。
 女子高生に扮した暗殺者リコリス。その歴代最強のエリートが働く喫茶店リコリコ。──このイントロダクションだと自分の初期スクリーニングからこぼれ落ちるのは無理もないといった感じなのだが、1話・2話を見たら、最初抱いた印象とはけっこう違うものだった。
 大きくふたつの特長がある。
 ひとつには、ガンアクションの描写にやたら力が入っているというところ。スタッフに銃器デザイン/銃器作画監督/銃器・アクション監修がそれぞれいるという効果を感じさせるアニメ。女子高生にリアルでハードエッジなガンアクションをやらせたいっていうギャップの欲求が制作の起点になっているのだろうなと思う。
 もうひとつは、キャラクター造形。
 特に主人公である千束。緩急自在に畳みかける台詞と、わずかな所作にも気を配った作画。絵と演技が奇跡的なレベルで融合している。ストーリーテリングよりこのキャラクターを描き出すことの方に大きなウェイトがかかっていると言えるほどに。
 そして、バディである冷静沈着なたきなとの対比でキャラクターがさらに引き立つ。
 ミカ、ミズキ、クルミといったリコリコメンバーもよいキャラクターだし、その他にも、フキや楠木司令のように必ずしも美形として描かれていないけれど存在感ある人物もいる。 

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ep.4 カフェで立ち上がって隣の席に行くときのカット



 後半に行くに連れて失速してる面は否めないかなとは思ってる。
 DAの戦術が稚拙だったり真島一派があまりプロっぽくなかったり、リリベルもだいぶ肩すかしだし……
 あと、最後の方での建物関連の描写が雑だという点がすごく気になった。
 延空木の3D表示が実際の配置と異なり街区に隣接して建っているとか、
 仮設としてもこんなよくわからない非充腹材はないだろうとか…

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 あと、メンテ扉であってもいまどきドアノブなんか使わないからね…。
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 ドアノブはアニメ見ててわりと気になる部分で、むかし P.A.Worksの『クロムクロ』でも、明らかな現代建築なのになぜか至るところにドアノブがあったりして違和感拭えなかったんだけど、今の建物は扉にレバーハンドルを使うのが一般的であるところ、アニメだとたまに無頓着にドアノブが描かれることがある。特別な知識なくてもふつうに日常生活のなかで周囲を観察していればわかることだと思うのだが、ドアといえばドアノブみたいなセットの固定観念が生き続けてしまっているのだろうか。(リコリコの建物内にあるドアノブは、古い家屋を改修して使ってる店だろうからまだわかるとしても)
 街並は現実の下町をロケして描いてるだろうとしても、電波塔と延空木は以上のように全般的にディテールが残念だった。
 作画の粗を突きたいつもりではなくて、ガンアクションには専門の作監や監修もつけてリアリティ追求している一方で、クライマックスの舞台であり物語としても終始シンボルとして扱われている建造物には同等の注意が払われていないという点が不思議なほどアンバランスだなと。


 物語については、一応いろいろ片付いて終わったかたちにはなっているけれど、DAにあれだけ多くの孤児がいるっていう設定は、結局きちんと説明されないままだったな、と思う。
 それと、ep.7でネームに対してたきなが「殺すべき」と反応し千束は「殺しちゃったんですか!?」と反応するところ、そしてホテルからの去り際での吉松の台詞「きみにはわかるはずだ」「きみには期待しているよ」、これらが示唆する千束とたきなのキャラクター的差異が結局活かされないまま終わってしまっている。


 こうした諸々もあって、非の打ち所のない完成度を持った作品とはなかなか言いづらいのだけど、でも、千束とたきなのキャラだけでこれらをまるごとカバーできている。
 ep.3 噴水のシーン、
「今は次に進む時」「わたしはきみと会えてうれしい!」「うれしい、うれしい!」
 ……このシーンひとつで、多少の欠陥はすべて後退する。








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―Angela Mitchell