::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

ジョン・サール “社会的世界の制作”



“Making the Social World: The Structure of Human Civilization
 2010
 John R. Searle
 ISBN:4326154551


社会的世界の制作: 人間文明の構造

社会的世界の制作: 人間文明の構造


 概要

 言語哲学分析哲学を長く牽引してきたサールが、「社会」を対象として書いた論考。1995年の『社会的現実の構成』に続くもので、社会の制度的事実について考察している。この一連の探求をサールは「社会的存在論」と呼んでいる。
 制度的事実というのは、「○○はアメリカ大統領である」「私が手に持っている紙片は20ドル紙幣である」というような、人間の主観的態度によって生み出された事実のこと。これらは物理学的に扱えるような対象物とは違うが、しかし社会における客観的で明らかな事実であることはまちがいない。こうしたタイプの事実はどのように説明することができるのか。
 社会的存在論は、制度的事実がどのように創出され維持されているのかを説明しようとする試み。

 ここでサールがとっている態度は、制度的事実というものを物理学的事実と切り離したものとしては扱わないということ。制度的事実についての説明は、あくまでも世界についての物理学的な基礎事実と矛盾しないことが目指される。
 本書において世界の基礎的事実と社会のレベルでの事実とをつなぐ道筋は、以下のように辿られる。
  物理学→生物学→神経生物学→志向性→集合的志向性→言語→社会


 基礎概念

  • 制度的事実:構成的規則の体系である制度によって可能となる。
  • 構成的規則:統制の対象となる行動の可能性それ自体を創出する規則。ex. チェスのルール
  • 地位機能宣言:「〜とみなされる」という形式をとる構成的規則。集合的承認を要する。権利を有することの表象によって権利が創出される。→義務論的権力
  • 宣言という発話行為:特定の事実の存在を言語的に表象することでその事実そのものが創出されるという操作。
  • 義務論的権力:願望独立的な行為理由を提供する。このことにより制度は、制約だけでなく、制度なしではありえなかったような莫大な可能性を創出する。


 内容メモ

志向性
心に備わる性質。脳・神経系の自然過程は、論理的な意味論的性質、つまり真理条件などの充足条件やその他の論理的関係を有している。志向性は、こうした特殊な論理的性格を持つ生物学的現象。

志向性に関わる重要なポイントは、「適合方向」という概念。
志向的状態が充足されるための責任の所在が志向的状態と世界のどちらにあるのかを示したのが適合方向というもの。
本書では言語というものを前言語的な志向性の延長に位置付けており、志向性にとっての適合方向と同じことが発話行為においても言える。(発話内容の充足の責任が発話行為と世界のどちらにあるのか)

志向性の場合、
    • 「信念」:充足を得るにあたりその表象内容を所与の世界状態と合致させなければならない。〈心→世界〉
    • 「願望」:充足を得るにあたりその表象内容を所与として世界状態の方がそれと合致されなければならない。〈世界→心〉
発話行為の場合、
    • 「陳述」:充足を得るにあたりその表象内容を所与の世界状態と合致させなければならない。〈言語→世界〉
    • 「約束」:充足を得るにあたりその表象内容を所与として世界状態の方がそれと合致されなければならない。〈世界→言語〉
    • 「宣言」:両方向の適合方向を持つ。〈言語→世界〉〈世界→言語〉
この「宣言」というタイプは、言語にはあるが前言語的思考(志向的状態)にはないもので、このタイプこそが制度的事実の創出に関わっている。

宣言
本書の主張は、
    • あらゆる制度的事実は、「宣言」という発話行為によって創出される
というもの。

もう少し具体的には、
    • 制度的事実が存在するためには制度(=構成的規則の体系)が不可欠。
    • 構成的規則は「XはCにおいてYとみなされる」という形式をとる。この地位機能宣言という発話行為によって、地位機能Yが存在するという事態が創出される。
    • 地位機能が作用するには、それが複数の人間に承認されること=集合的承認が必要。集合的承認の前提として集合的志向性がある。
 
集合的志向性
個人的志向性:「私は信じている」「私は望んでいる」
集合的志向性:「我々は〜している」「我々は〜することを意図している」「我々は〜を信じている」

地位機能宣言は単独の人間ではなく複数の人間による集合的承認によって成立する。集合的承認の前提に集合的志向性がある。

集合的行動のなかで各個人はそれぞれ自分の個人的寄与を手段として共通の目標を達成しようと試みているが、集合的行動への参与が可能であるためには、他人もそれぞれ各自の寄与をなし協同しているという信念/想定が前提として不可欠である。
制度的構造の内部で協同行為が成立するにあたっては、それに先行してその制度についての集合的な承認・受容が存在していなければならない。
たとえば貨幣制度の場合、それが集合的に承認されていることを構成するのは、各人がそれぞれ貨幣制度を承認しており、かつ他人たちも貨幣制度を承認しているだろうとの相互的知識が全員の間で共有されているという事実による。

言語による事態の創出
事態を記述するのに用いられる発話行為それ自体が、そもそも当の事態を創出している。
「〜は〜とみなされる」という地位機能宣言によって義務が創出される。

二重の適合方向を有する「宣言」
  • ex.「これは私の家だ」
      • 自分こそがこの家に対する権利を有することを表象(〈言語→世界〉の適合方向)
      • この表象が他の人々に受容されたら、集合的承認によって初めて存在するようになる権利が創出される(〈世界→言語〉の適合方向)
  • この両者は相互依存関係にある。(この権利は、権利を有することが表象されたことによって初めて創出された)

特定の事実の存在を言語的に表象することでその事実そのものが創出されるというこの操作は、あらゆる制度的事実の基礎となる。
言語は社会的関係に義務論を導入し、義務論的構造を持った制度的事実を創出する。

義務論的権力
あらゆる制度において、制度的事実はわれわれに義務論的権力を与える。
義務論的権力は、 願望独立的な行為理由を与える。願望独立的な行為理由は、願望の根拠を合理的に提供する。このことにより制度は、制約だけでなく、制度なしではありえなかったような莫大な可能性を創出する。



 感想


  • がんばって読めば理解できる日本語になっている翻訳書というのはほんとうに得がたいものだと思う。

  • 同時期に同じ出版社から刊行された北田暁大『社会制作の方法』とつくづくまぎらわしいタイトル……。同じように青色基調の体裁だし。





CupcakKe “Eden” (2018)



Eden [Explicit]






 シカゴ出身のラッパー。今年初めに出した 3rdアルバム “Ephorize” で高い評価を受け、それからほとんど間をおかず同じ年にこのアルバムをリリースすることとなった。
 下ネタまみれのリリックでキワモノっぽくありつつも、ラップスキルの高さと、意外にコンシャスな面も共存しているというところが特徴。女性ラッパーの新鋭として今年注目を集めている。
 そのラップはマンブルと対極にあるような力強いもので、自信に満ちている。トラックもこのラップをうまく効かせるものになっている。ラップの強さはまちがいないんだけど、必ずしもそれだけにとどまらず、よく聴くとけっこう細かくエフェクトが施されていて、ラップをより強調するようにエディティングがうまく作用している。
 Jlinのジューク/フットワークもトラックとして合いそうだと思った。Jlinもシカゴ近辺だけどキャラやスタイルはまったく違うので接点はなさそう。でも音楽的にはうまく組み合わさると思う。



 ヒップホップにおける女性ラッパーのあり方というのは、このジャンルにずっとまとわりついているミソジニスティックな傾向と分かちがたく関係している。その代表例が Lil' Kim で、強固な男性優位世界のなかで女性に与えられる固定イメージをあえて使用した…と評されている。
 そうした先駆たちと比べると CupcakKe は、もっと自由な立ち位置でラップをおこなっていると見られているようだ。実際、CupcakKeは Cheryl Keyes による女性ラッパーの四類型 “Queen Mother” “Fly Girl” “Sista with Attitude” “Lesbian” というどれにも当てはまっていないと思う。
 同じ “bitch” という言葉でも、Lil' Kim の語感と CupcakKe の語感とはだいぶ違う。下ネタも、CupcakKe の場合はもう過剰すぎてむしろギャグっぽくもなっている。だいたい名義自体が “bukkake” から来ているらしいし……。

 思ったのは、全体的に渡辺直美と似たものを感じるということ。風貌や体型にもちょっと近いところがあるんだけど、キワモノとコンシャスのバランス、「男性性を意識した女性性」からの距離の置き方という点で。
 渡辺直美って、デビュー時からするとネタ的な受け取られ方からストレートな受け取られ方へ移行してきていると思うのだが(特に女性から、あるいは海外から)、行き着いたキャラクター像に CupcakKe と重なるところがある。
 たとえば体重や体型に対する意識。渡辺直美の場合、ワシントンポストの記事In super-skinny Japan, Naomi Watanabe is chubby and proud” - The Washington Postでよくまとめられているけど、CupcakKe も 2nd “Queen Elizabitch” の “Biggie Smalls" で「体型至上主義」的な考え方を斥ける似たような内容のラップをしている。

“I could be thin or overweight, won't bother me.”
“I love every inch of my body. Don't compare me to shawty.”

 アイドルとかセクシー・アイコンというより、もっと親近感をもってファンから見られているタイプだというところも共通する。


 ヒップホップのひとつの特徴として、「セルフリスペクト」というものがある。男性ラッパーの場合これがマチズモと表裏一体で、虚勢的な面も混ざりつつ成立してるものであるところ、女性ラッパーでは違ったかたちで表れてきたと思う。CupcakKe も女性ラッパーの系譜にありつつ、渡辺直美的な自由さの上でセルフリスペクトが成り立っている。
 その自由のひとつの表れが CupcakKe の場合は過激な下ネタではあるのだが、そこにすべてが尽くされるわけではない。まあ CupcakKe を聞くとどうしてもまず下ネタに注意がいくのは仕方がない。直接的な単語もあるしメタファでくるんだ単語もあるけれど、とにかく下品ではある。SNSでのひとこと紹介文なんかも、脱力するようなフレーズが掲げられてたり。
 ただ、それだけにはおさまってなくて、コンシャスなラップもしているのが CupcakKe のおもしろいところ。社会的マイノリティへの視線、あるいは自分の過去を露呈するような部分など。
 ラストトラック “A.U.T.I.S.M” はタイトルの通り自閉症に対するリリックなんだけど、ここでのフックは自身のスタンスのセルフリスペクト的な表明にもなっていて、アルバム全体にとって明確なメッセージになっていると思う。

“A unique-thinking individual strongly matters.”




CupcakKe
Information
  Birth name  Elizabeth Eden Harris
  OriginChicago, US
  Born1997
  Years active  2012 -
 
Links
  Officialhttp://www.cupcakke.com/
    YouTube  https://www.youtube.com/user/CupcakKeFisno
    Twitterhttps://twitter.com/CupcakKe_rapper/
    Instagram  https://www.instagram.com/cupcakkeafreakk/
  LabelSelf-released

ASIN:B07K37CF1Y


Julia Holter “Aviary” (2018)



AVIARY/2CD MINI-GATEFO






 LAのコンポーザーによる 5th アルバム。
 シンセの他に、弦楽器やトランペット、バグパイプなど生楽器をさまざまに用いたオーケストラルなサウンド。全編に渡り彼女自身のヴォーカルを最大限に活かした楽曲づくりがなされている。


 各曲は少しずつ印象が異なるけれど、どこか中世風な雰囲気が共通している。アルバムを通して聴いたとき、ひとつの映画を体験したような感じがある。実際、15曲・90分という長さはちょっとした映画並でもある。ヴォーカルの存在が強いことを考えると、むしろ歌劇というべきだろうか。
 曲構成には緩急があり、穏やかではありつつ情熱を込めた局面もあって、曲調が変化する。それでも常にヴォーカルが曲を牽引していて、そこに根幹を成す一貫性が担保されている。
 いくつかハイライトがあるけれど、予兆的な幕開けである M-1 “Turn The Light On” の直後に始まる M-2 “Whether” がとりわけすばらしい。マーチのようなリズムで前傾的に進むサウンド、一語一語はっきり発するように、短い語を連ねていくヴォーカル。歌詞と歌唱と演奏の統合が、この上なく崇高。
 他に山場となる曲は、M-8 “Underneath The Moon”、M-11 “I Would Rather See”、M-12 “Les Jeux To You” あたり。特に “Les Jeux To You” はヴォーカルの多重構成が華麗で、後半の曲の中で強い印象を残す。


 アルバムタイトル “Aviary” は「鳥小屋」という意味で、レバノンアメリカ人の作家 Etel Adnan による次のフレーズから引用されたもの。

I found myself in an aviary full of shrieking birds.(気付けばわたしは、甲高く叫ぶ鳥でいっぱいの檻のなかにいた)

 プレスリリースによると、ここで意図されているのは、絶え間なく政治的腐敗や災害に見舞われ、利害や怒りで叫び合う現代社会のメタファとのこと。おそらく、ネット上での主義主張の闘争状態とそれに対するフラストレーションを念頭に置いている。つまり、“tweet(さえずり)” が極端化したものが “shriek(金切り声)” だと言いたいのだろう。

 とはいえアルバムにそういった憤懣や鬱屈が表れているわけではない。
 歌詞には暗示や隠喩が多く、一聴してもよくわからないところがある。解釈や分析といったものが必要なタイプの歌詞だ。M-4 “Voce Simul” などはラテン語で歌われている部分もあるし……。
 ただ、M-7 “I Shall Love 2”・M-14 “I Shall Love 1” は比較的ストレート。それぞれアルバム前半と後半のクライマックスに当たる位置にあることも含め、この “I Shall Love” という句こそが、玄妙な全体にとってのひとつの結論なのかもしれない。

There is nothing else. I am in love.
Do the angels say “I shall love” ?”

 英語でも日常であまり使われなくなっている “shall” という助動詞。この語に伴われる神的・宗教的な含みというものが、ここではあますところなく効力を発している。






Julia Holter
Information
  Birth name  Julia Shammas Holter
  OriginLos Angeles, California, US
  Current Location   Los Angeles, California, US
  Born1984
  Years active  2008 -
 
Links
  Officialhttp://juliaholter.com/
    SoundCloud  https://soundcloud.com/juliaholter
    Twitterhttps://twitter.com/JULIA_HOLTER
  LabelDomino  http://www.dominorecordco.com/uk/news/06-09-18/julia-holter/

ASIN:B07GWSQJPG


“サーチ”






“Searching”
 Director : Aneesh Chaganty
 US, 2018




 SNSウェブサービスなどPCの画面だけでつくられた映画。
 失踪した娘を探す親、というアメリカ映画でよくあるシチュエーションなんだけど、捜索にあたってネット/SNSを最大限に駆使し、その画面だけですべてを描写するというところが斬新で野心的*1
 原題の “Searching” という語が、失踪者の「捜索」とネット上での「検索」とを掛けている。タイトルロゴで、語尾の点滅するカーソルがいかにもPC画面らしさを醸し出すとともに、そこにどのような物語・映像が続くのかを強く訴求するようなデザインとして働いている。


 PCの画面だけで進行する、という最大の特徴は成功していると思う*2
 Facebook/Twitter/Messenger/FaceTime/Google/Youtube/YouCast/Tumblr/Instagram etc……。映画内で個々のウェブサービスの説明をあらためておこなうこともなく*3、現代のこうしたテクノロジーを視聴者が当然知っていることが前提とされている。映し出されるPCの画面上では、複数のアプリが同時に作動していて、主人公がメッセンジャーを見ながらその場で内容を検索したりといったことがおこなわれる。主人公はIT関係の職種らしく、テキストのタイピングも速いし、さまざまなアプリの操作もまったく澱みがない。つまり、説明もないままにテキストや画像の移り変わりが非常に高速で進行していく。目で追っていくのが大変、と一瞬思うけど、でも実際は容易についていくことができる。視聴者もこうしたものに日常で慣れていて、だから何がおこなわれているかがすぐわかるし次に何をおこなうのかという予測も立てやすいからなのだろう。要するにこの映画は、現在のわれわれにとって基幹となっている生活風景やアクティビティに限りなく近づいたものとしてできている。


 「PC画面だけでつくられた映画」というのは必ずしも伊達ではない。
 たとえば、異なるウェブサービスで共通点のないはずのものに同じ画像が用いられていると気付くところでは、主人公の表情をまったく描写することなく、ウィンドウをアクティブにしたり画面がクローズアップされたりといった動きだけで胸中を描くことができている。
 まあ全体的にちょっとFaceTime画面に頼りすぎ(そうしないと主人公の姿がわからないからだが)というのはあるし、上述のシーンでも画面のクローズアップというのは映画編集側の次元に属することだったりするように、実際には映画的な演出や編集といったものもかなり施されて成り立っているのだけど、「PC画面で映画を物語る」ということは充分に達成できていると言っていい。


 最後のシーンは特に象徴的。
 このシーン、台詞もなければ役者が映されているわけでもなく、単に壁紙を変えるという完全にPC上の操作を追っているだけなんだけど、にもかかわらず視聴者はそこから登場人物の思いをはっきり読み取ることができる。人間の「意図」や「内面」といったものは、このようなほんとうにちょっとした行為からも把握できるのだということがよくわかる。“Like” をつけたかどうかだとか、フォローしたり外したりだとか、あるいはテキストもなしに投稿された一枚の画像だとか、そういったデジタル上のわずかな行為だけからもわれわれは喜怒哀楽を感じ取り、共感したり争ったりするわけだ。
 けれどもこのシーンは、やはり映画の文法上に沿って提示されたものでもある。メッセンジャーのテキストによる即時的なやり取り、マウスポインタの動き、クリック動作、シャットダウンをためらって壁紙を変える、という一連の操作。そこに演者の姿は映っていないのに、でもひとつひとつの行為のタイミングや間といったものが、ふつうの映画で役者がおこなうときとまったく同じように存在していることがわかる。
 何気ないPC上の操作だけど、そこには「映画」としての脚色・編集が慎重に施されていて、だからこそ物語として成り立っている。
 「すべてがPC画面でつくられている」といっても、一方で、これは紛れもなく「映画」でもあるのだ。



  • テーマ面で言うと、「父と娘」「母と息子」という対比が明確。
     
  • きちんと伏線を張って後で回収するタイプの映画。
    厳密には無理がありそうなものもあるけれど、こういうものは物語上、伏線と回収という関係が成り立っていればそれで充分だと思っている。
     
  • パスワードリセットかける際に登録アドレスへ再設定メールを毎回送信する面倒、みたいなインターネットでありがちなことがおもしろい。どこかで見たような画像素材とか。親が紛れ込んだ動画ストリーミングで、常連ユーザーがチャット入室したけどすぐ退室したり、とか。(ただしこれはあとで伏線だとわかる)
     
  • IMDbあたりを読んでると、本編で認知されてこないような細かいディテールがあるようだ。
    パムのFacebook のアドレスに載っている人物だとか、よく読み解けば物語の詳細がもっと判明しそう。また、基本的にPC画面はすべて一からつくり直したフェイクらしいのだが、Facebook のトレンドトピックがちょうど作中時間の2015年時点で実際にそうだったものとなっていたり、といった遊び的な部分も多く混じっているとのこと。



IMDb : http://www.imdb.com/title/tt7668870/

*1:同じアイデアの映画がそれまでになかったわけではないようだが。

*2:厳密にはPCだけじゃなくスマートフォンも含んでいる。

*3:操作上のダイアログボックスなどがある意味で説明として機能している。

マーガレット・アトウッド “侍女の物語”



“The Handmaid's Tale”
 1985
 Margaret Atwood
 ISBN:4151200118



侍女の物語

侍女の物語






 前から読もうと思っていてようやく読んだ。

 近未来ディストピア小説
 宗教右派によるクーデターで原理主義国家へと変貌したアメリカ。環境汚染による出生率の異常減少とも相俟って、極端に女性抑圧的な統制社会が生まれていた。出産能力がある女性は〈侍女〉と呼ばれてエリート層の男性へ派遣され、儀式めいた性交を通じて妊娠することを期待される。秘密警察、公開処刑、教育施設、反乱組織……といった当然ありそうな要素も伴って、まさしくディストピアと言うべき世界が描かれている。
 まったく荒唐無稽な設定でもなく、現実世界でも歯車が狂い始めれば充分こうなりそうなところに迫真的な恐怖がある。
 原作は1985年発行だからけっこう前の作品だけど、折に触れて耳にすることのある小説だった。2017年にhuluでドラマ化されたものがわりと人気が出ていたり、エマ・ワトソンが女性権利拡大キャンペーンで用いたりもしていて、現在でもなお通じるテーマ性を持っていることが覗える。
 トランプ政権に代表される現代アメリカの排外化・右傾化と絡めて語られることも多く、つまりここで語られているものは人類が既に克服した過去の宿痾ではなくて、油断すれば容易に到来する現実の脅威だと多くの人々が捉えているということなのかもしれない。


 というわけで以前から基本設定については知識があったのだが、実際に読んでみると、いくつかの点で予想と違っていたところがあった。
 ひとつは、抑圧-非抑圧の構造が一面的ではないというところ。
 この世界は、言ってみればリベラルが完全に敗北したような状況にあるのだが、しかし「勝者」の側も必ずしも世を謳歌しきっている風でもない。出生危機という事態にあるとはいえ、「支配側」にいる男性たち、そのさらにトップに位置する「司令官」でさえも、状況に倦み疲れているような面が見られる。末尾の注釈によれば司令官はこの社会体制の生みの親に当たる人物である可能性が高いが、その彼がギレアデ以前の文化遺物を隠し持っていたり、主人公とスクラブルをおこなう奇妙な時間に固執したり、あるいは娼館での遊蕩というような自ら排斥したはずの不道徳に耽っていたりする。
 道徳を主張する保守強硬派が不道徳な事件でクローズアップされることは現実にもよくあることで、そういう意味からすると意外性はないのだが、しかし「革命」からそれほど経っていない時点でこのような倦怠が上層にも行き及んでいるというのは、ディストピア小説としては予想外のものがあった。支配を貫徹することの難しさというより、男性優位社会の抑圧性は他ならぬ男性側も抑圧しているのだ…ということが体現されているのだと思うが。


 もうひとつは、こうした社会体制への移行が非常に早く済んでいるという点。
 年数がはっきり書かれていない上、どうもこの小説全体が後代の世から再編集されたものらしいのだけど、娘の年齢に関する作中の記述から考えるかぎり、ギレアデが誕生してから物語の時点までたった3年しか経過していない。当たり前のように現代社会を生きていた主人公が、瞬く間に前時代的社会へ投げ込まれていく過程。こうした変化の描写はあまりにも性急すぎるだろうか。ヴァイマル共和国から第三帝国へはもっとかかっている。だがイラン革命はどうか。あるいは、トランプの政権獲得というのも、革命……とまではいかないにしてもそれに近い面がある出来事だと思っているのだが、共和党予備選から数えても現時点でたった3年しか経っていない。より憂うべき事態がまだ訪れていないとして。
 全体統制社会への転落は一瞬で起こり得ると思うし、一方で、その前兆はきちんと知覚できるものでもあると思っている。


 また全体的に、思っていたほど鬱屈的でどうしようもなく重い、というほどではなかった。相当構えて読み始めたのだが。
 これはひとつには上で書いたように、「司令官」がどうにも疲れているような描かれ方をされているところからも来ている。
 それと、オープンエンド的な終わり方で主人公の行く末を濁していることもある。これ、「注釈」を読むとおそらく脱出に成功した可能性に比重が置かれているように読めるのだが、実際の行く末はともかく、「反乱組織」や「地下鉄道」といったものがそれなりに活動しているのも、希望を感じさせるところがあったと思う。


 物語的な特徴という点では、全体が「再現された記録」という形式を取っているところが重要だ。
 注釈で語られているように、これらの記録の順序がただしいものかどうかが不明。そして主人公の置かれた境遇から、細部がぼかされたり、重要な情報が伏せられたりしている。ということは、物語としてミスリーディングされている可能性も充分あるのだろう。
 それから、構成。「夜」と「昼」のパートが交互に訪れる。昼のパートの章題はさまざま。だが夜のパートはどれも同じ「夜」という章題。ただしひとつだけ、「うたたね(Nap)」というパートがある。これがテープの再現なのだとして、章題もまた「編集者」が付けたものなのだろうか。


物語は手紙に似ている。親愛なるあなたに、とわたしは言おう。ただ、名前のないあなたに、と。名前をつけてしまうと、あなたを事実の世界に結びつけることになり、そうするとより危険になるからだ。外の現実の世界で、あなたが生き残る見こみがどれだけあるだろう。わたしは古いラヴ・ソングのように、あなた、あなたと言おう。あなたはひとり以上の者かもしれない。
あなたは数千人の人間かもしれない。

でも、わたしは悲しく、ひもじく、惨めなこの物語を、逸話が多く遅々として進まないこの物語を語りつづける。結局のところ、わたしはこの物語をあなたに聞いてもらいたいから。わたしは同様に、チャンスさえあれば──わたしたちが会えるか、あなたが逃亡するかすれば──あなたの物語も聞いてみたい。未来か、天国か、牢獄か、地下か、どこか他の場所で。とにかく、それはここでないことだけは確かだ。何であれあなたに語りかければ、わたしは少なくともあなたを信じることになる。あなたがそこにいることを信じることになる。あなたを存在させることになる。我話す、ゆえに汝在り。





epic45 “Through Broken Summer” (2018)



Through Broken Summer [ボーナストラック1曲のダウンロードコードつき]






 2011年の “Weathering” 以来、7年振りのアルバム。
 スタイルは何も変わっていない。期待するものがすべてそのまま維持されている。
 彼らが拠点とするイングランドの田園地帯を体現するようなサウンド。慎ましい農家や村といったものではなくて、見渡すかぎり連なる丘陵や、雲の混じる雄大な空、星を湛えて覆い被さる夜といったような、峻厳ではなくても人を圧倒する自然の情景。
 変わっていないというより、変えようがないスタイルなのだろう。様式的・技術的な挑戦は彼らの課題とはならない。追求するとすれば、さらなる洗練。
 そういう意味で言うと、本作品の完成度はこれまでのアルバムから比べてもかなり完成度が高いと思う。不動のスタイルを続けるグループへの形容としては常套すぎるかもしれないけれど、集大成、ということばを使いたくなってしまう。長いブランクを経て、良い方へ熟成しきった感じ。

 epic45って、何となく2人のミュージシャンがアコースティックに楽器を弾いているようなイメージを抱いてしまうけど、実際はシンセも使っているし、ドラムも含めゲストミュージシャンも参加して、多重的な音を展開している。
 穏やかにメロディをつむぎ始め、抑えながらも壮大に感情を高めていくという楽曲。単に素朴というようなものではなく、寸分の隙なく構成された情感描写というような。



Epic45
Information
  Current Location   Staffordshire, UK
  Years active  1995 -
  Current members   Ben Holton, Rob Glover
 
Links
  Officialhttp://www.epic45.com/
  Twitterhttps://twitter.com/epic45
  LabelWayside and Woodland  
http://store.waysideandwoodland.com/products/623472-epic45-through-broken-summer

ASIN:B07G234DH9


エイドリアン・オーウェン “生存する意識”



“Into the Gray Zone : A Neuroscientist Explores the Border Between Life and Death
 2017
 Adrian Owen
 ISBN:4622087359


生存する意識――植物状態の患者と対話する

生存する意識――植物状態の患者と対話する



 概要

 この本で問われていることは次のふたつ。

  • 植物状態と思われる患者に、実は意識があるとしたら?
  • 意識とは何か? 脳科学的に見たとき、何をもって意識の有無が判定できるか。

 前者は、植物状態の患者との意思疎通の試み。
 後者は「意識」に対する脳神経学的な探求。


 「植物状態での意識の有無」っていうのがまず、トピックとして端的に訴求力がある。
 この話って科学記事とかでたまに話題になることがあったけど、見返してみたらそのほとんどがこの著者に関連する研究だった。本書は、脳神経科学者である著者によるそうした研究のまとめ・振り返りのようなもの。
 「植物状態での意識」というトピックに対する自分の興味は、もし自分がそのように身体を動かせない状態になってそれでも知覚も思考も続いていたらどう感じるだろう……ということへの想像から来るもので、でもそういう状況ってほんとうは植物状態というより「閉じ込め症候群」の方が近い。閉じ込め症候群の患者とは、わずかではあっても意思疎通が可能だし、冒頭でも触れられている通り、まばたきだけで手記を書き上げたような事例もある。
 しかしこの本で著者が対象としているのは閉じ込め症候群とは違い、完全な植物状態と判定された患者たちの方。何の反応も見せない患者に対し、著者は脳スキャン技術を用いて意思疎通の方法を確立させていく。結果、植物状態なのに実は意識があると判明した患者が2割程度もいることがわかってきたらしいのだが、それには率直に驚きがある。
 意識があったというなら、植物状態ではなく閉じ込め症候群だった、と考えるべきだという気もしなくもない。しかし著者は植物状態と閉じ込め症候群に最初から区別を引いている。それは書中で語られているようにいくつかの私的体験の積み重ねから導かれたことなのだが、「まったく動くこともできずただ眠り続ける状態の患者」から本人の意識を「見つけ出そう」という点にこそ著者の研究モチベーションの大きな部分が向けられているからだ。



 内容

  • 研究
    • 植物状態の患者へ脳スキャンをおこない意識があるかどうかを調べる試み
    • [装置]
      • 最初はPETスキャン → 使用負荷・制限の少ない fMRI の導入で飛躍的進歩 → 今ではポータブルEEGによる出張調査もおこない、さらに可能性を拡げている
    • [方法]
      • 写真を見せる・音声を聞かせるなどによる反応を見る → 意識的な決定があれば意識の存在を証明できるという考えに基づき、「能動的課題」という方法へ → やがて「テニスのイメージ(=運動前野の活性化)」「自宅の空間ナビゲーション(=海馬傍回の活性化)」の二択による意思疎通へ。映画を見せて反応を調べるという方法も。
      • ただし成果の出ないテストもあった。方法は完璧ではない。

  • 意識とは
    • 意識とは何かについて、科学者の間に一致した定義はない。
      著者は、意図の存在を実証できれば意識も存在するという想定のもとに研究を進める。
      意図、つまり意図的決定を下すことこそが意識の証拠であると。
        • 理解と経験の区別
        • 意識の有無に関わると思われるものの例:言語 / 痛み / 決定
        • 意識の計測では、意識そのものではなく、意識があるという経験に関連する脳の変化を計測していることになる

  • 関連してくる問題
    • [倫理的問題]
        • 法的問題:延命と「死ぬ権利」
        • 意思疎通の内容の問題:彼らには意思疎通に応じる意識があるが、しかし自身に関わる重大な問題に答える判断能力まであるとまでは言えないのではないか。(「死にたいですか」「痛みがありますか」という質問の是非)
        • 研究の意義:本人には恩恵はないだろう。しかしいずれ他の患者に臨床的な恩恵がもたらされる見込みはある。とはいえ意識があるとわかることで本人にも良い方向へ寄与する可能性を、著者は信じている。(「スキャンによって見つけてくれた」と感謝する患者)
    • [哲学的問題]
        • 自由意志
        • 意識の還元主義的把握
    • [文学的問題]
      • おもしろかったのは、映画を見せることに対する脳反応を見ることで意識活動を探るという方法で、「ヒッチコック映画」が意識の有無を測るのに向いている、というところ。つまり意識の有無を探りやすい筋運び・演出というものがあるようなのだ。(脳科学的なナラトロジーというものを展開できる可能性)



 文章の特徴

 学術書という感じではなく、もっと軽い語り口で読み手を引き込むような文章。
 著者の人生体験が随所で語られる。わりと重いエピソードだと思うのだが、それが研究の動機付けや方向性にも直接関わっている。



 メモ
 
内面の把握
 脳スキャンを使った二択テストも、「質問」に対し脳反応で「答」を知るというやり取りなので、コミュニケーションの形式としては日常での会話と同じ。「脳スキャンで意思疎通」みたいに聞くとあたらしく思えるけれど、いまのところ広いコミュニケーションの一形態という範囲を決定的に超えてはいない。
 ただし今後、秘密を暴くとか記憶を読み取るというようなことが可能になったら、それはあたらしい事態を招くことになるかもしれない。
 とはいえそのような段階に到達したとしても、「世界は結局自分の視座から開かれることしかできない」という根源的な部分は不変だと思うので、哲学的な難題はどこまでも残り続けるだろうとは思う。
    • 脳スキャンで誰かの内面を余さず把握できるようになったり、他人と脳神経をつないで相手が感じている痛みを自分も感じることができるようになったりしたとして、でもそれらもやはり「自分」の視座から体験されることであり、「他人の内面」をそのままに体験することはできない。——というか「体験」は常に「自己」と結びついているので、「他人の内面」を体験するということがまず原理的なレベルで不可能。
    • 一方で、日常生活上、他人の内面は理解できるものとして振る舞われるという実態もある。内面がわかるときとわからないときがあるからこそ、「内面がわからない」ということが問題となる(有意味なものとなる)。
       
自由意志
 選ぶことのできる問いからの「決定」こそ意識の証だ、というのが本書を貫く根源的な仮定になっているわけだが、物理還元主義的立場からは基本的に否定されるだろう「自由意志」というものがここでは容認されることになっているのがおもしろい。ある意味、自由意志の存在証明を懸命におこなっているような本。
    • それは「決定」に至る前の因果的詳細までは探求されていないからだが……。
    • 「決定」を生む原因を脳科学で精彩に解明することはさすがに容易ではないと思う。問題が与えられたときどのような返答を返すかは、そう遠くない将来に高い確度で予想できるようにはなるだろうとしても。
 そもそも人間には「意識」というものがあるということも明白な前提とされていて、その存在に疑問は差し向けられていない。
    • 「意識」の定義はいろいろで、医学において「覚醒」や「認識」という概念と関連するものとしての「意識」が否定されていないのは当然。(「意識がある/ない」というフレーズが、たとえば救急現場では日常的に用いられている)
    • もっとも、「意識」を錯覚などとして否定あるいは格下げしてしまうのはむしろ哲学者の方なのかもしれない。







 






music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell