::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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“New Photographic Objects 写真と映像の物質性” 2020.06.02. - 2020.09.06.



写真と映像の物質性
 New Photographic Objects

 埼玉県立近代美術館


New Photographic Objects 写真と映像の物質性” 埼玉県立近代美術館


 主に写真や映像を扱うアーティスト5組(迫鉄平/滝沢広/Nerhol/牧野貴/横田大輔)を集め、それらの持つ「物質性」に焦点を当てた企画展。

この展覧会で紹介する4名と1組のアーティストは、こうした状況をふまえつつ、メディアの物質性を重視した独自のアプローチによってこの領野に新機軸を打ち出しています。数百枚の写真を積み重ねて切断した断面、くしゃくしゃに折りたたまれたプリントの物理的な襞、映像から立ち上がる観る行為に潜在する触覚的な要素など、彼らの作品における特徴的な物質性は、単にフェティッシュなこだわりによるものではありません。おのおのが用いるメディアの歴史や特性、機能に鋭く分け入り、それを更新するための戦略によって獲得された性質なのです。
https://pref.spec.ed.jp/momas/page_20200305063201


 特に良かったのは Nerhol。

“New Photographic Objects 写真と映像の物質性” 展示風景:Nerhol
New Photographic Objects 写真と映像の物質性” 展示風景:Nerhol

Nerhol
グラフィックデザイナー・田中義久(1980年静岡県生まれ)と彫刻家・飯田竜太(1981年静岡県生まれ)によるアーティストデュオ。2007年よりNerholとして活動を開始。ある条件下で撮影された数百枚の写真を積層し、彫り込む手法による制作を継続している。人物をはじめ街路樹や動物、流れる水、あるいはネット空間にアップされた画像データや記録映像など多様なモチーフを選びながら、それらが孕む時間軸さえ歪ませるような作品を制作。そこでは一貫して、私たちが日常生活を過ごすときには見落とされがちな有機物が孕む多層的な存在態を解き明かすことが試みられている。
https://pref.spec.ed.jp/momas/page_20200305063201

 動画を数百枚の連続写真として印刷し、積層させてからカッターやノミで彫り込んで加工した作品。
 横から断面を見ると、膨大な紙が重なっていることがわかる。もとは動画なので、まさしく時間の積層といったところ。彫り込んでいくことによっていびつな形で過去があらわにされる。
 一見すると等高線模型のようで、作品によっては被写体が何かもよくわからずぼやけた色彩が浸みているだけに見えるものもあるし、何が映っているかわりと明瞭なものもある。いずれにしてもそこには微妙な時間のずれが表れていて、それが地形の模型のような物質性を持ち、目の前に確固として存在している。連続する過去の諸局面が部分的に融け合ったかたちで固化しているように。
 本展の「写真と映像の物質性」というテーマをもっとも体現した作品だと思う。これらだけでも見に行く価値がある。(もう今日で会期終了してしまったが)




 あと、ちょうど「迫鉄平 全映像作品2013-2019 上映会」とトーク・セッションをやってた日だったので、それらも観てみた。『剣とサンダル』の上映が始まったあたりから、共に THE COPY TRAVELERSというユニットを組んでいる上田良、加納俊輔とのトーク・セッションまで。

迫鉄平
瞬間を切り取るスナップ写真の技法を応用した映像作品や、複数の瞬間を一枚の写真に畳み込むスナップ写真のシリーズにおいて、「決定的瞬間」から被写体と鑑賞者を解放することを試みている。何の変哲もない光景をとらえたスナップ写真を時間的に引き延ばしたかのような映像作品で、2015年の「Canon写真新世紀」グランプリを受賞。
https://pref.spec.ed.jp/momas/page_20200305063201


 迫鉄平の作品は、固定視点で撮られた「スナップ動画」「動きのある写真」みたいなもので、iPhone の Live Photos をちょっと長くしたようなもの、といった感じ。だいたい10秒前後ぐらいの長さ。なんとなく題材や「おもしろいポイント」がはっきりしているものもあれば(螺旋階段の前でベビーカーをくるくる回す女の子)、ただずっと車窓を映し続けているものもある(電車とかは「車内の景色」と「車外の景色」のふたつがあるところがおもしろい、という話がトーク・セッションで出ていた)
 そうした個々の動画群がどういった連なりで構成されているのか、というところも興味があったんだけど、そのあたりの話までは出なかった。特に深い意味を込めて連ねていないような感じもしてたんだけど、章分けされていたり、トップにそれなりに意味/印象の強い動画が置かれている作品もあったりするし、まったく無意味に構成しているわけではないはず。
 特に『Run Up!』を観てたとき、ゴミ収集車のシーンが2回出てくるところがあって、あ、これさっきの続きだ…って気付いたときに急に何か「構成の意図」があるはずっていう感覚を受けた。

 トーク内容もけっこうおもしろかった。
 だいたい「iPhoneをかざして撮り始める契機」「タイトル問題」「編集(トップ、打順)」といったような内容。

  • 撮るタイミング:iPhoneはすぐ撮影開始できるのでそんなに深く考えず撮り始めたりする。ひとつのシーンでふたつ以上のできごとが起こっているものをわりと撮ろうとしている傾向は自覚しているとのこと。
  • タイトル:そのときどきの人生/生活の何かが反映されている。聴いてた曲をもじったものだったり、当時考えていたことだったり。
  • 編集において何か軸があるのかどうか。→ないこともないが言語化が難しいよう。



Speaker Music “Black Nationalist Sonic Weaponry” (2020)



Black Nationalist Sonic Weaponry



 現在、BLM運動に呼応する音楽がさまざまに生まれる中、このアルバムは鮮烈なサウンド表現と徹底したコンセプトとで傑出している。

 ここでおこなわれていることは、簡単に言えばブラック・ミュージックとしてのテクノ再構築。その意義は、Speaker Music が参加しているキャンペーンのタイトル “Make Techno Black Again”*1 というフレーズにいみじくも集約されている。要するに、デトロイトから始まったテクノが“ホワイトウォッシュ”されてルーツが忘却されつつある今、アフリカン・アメリカンの歴史とブラック・ミュージックの歴史を踏まえたその延長へテクノをふたたび位置付けようという試行だ。
 そしてその結果できあがったものは、奇跡というか怪物というか、とにかくとんでもないものに仕上がっている。
 ドラムンベースなどの地平をはるかに越えたような先鋭的なビート展開に、ジャズやサンプリング、ヴォイスやノイズが組み合わさって生み出された無比の光景。あたかもふたつの異なる時間線が通っているかのようで、たとえばM-11では、緻密で複雑なパーカッションの速度とゆるやかなサックスが完全に融け合わず、それでいて反発することなく絶妙に共存している。

 冒頭、Maia Sanaa による詩が警官によるアフリカン・アメリカン殺害を滔々と語り、重いビートがことばを運んでいくところから既に全体の方向性が明確に表れている。
 M-2、M-3と進むにつれ、繊細に刻まれる高音部と低音部の混交が全編に通底するひとつの指針となっていることがわかり、曲ごとに管楽器だったり警察無線のサンプリングだったりスポークン・ワードだったりが登場して異なる音響空間が現れつつも、根底を成すビートが聴き手の身にしっかりと加圧されていくことを知る。
 M-9はニュースプログラムを素材に使った楽曲。司会者とゲストの専門家による淀みなく続くトークが、流れるビートによって語の抑揚を補強されて、何か新しい音楽のフォーマットと化している。少し前に RTJ の Killer Mike がBLMの文脈でおこなったスピーチが、それ自体まるでアカペラのラップであるかのような力を持っていたことを思い出すが(“Plot, Plan, Strategize, Organize and Mobilize”のリフレイン)、この曲のトークには押韻もなければ情熱もない。口語に自然に備わる均一な速度、説明としての論理性といったものが、迷乱し飛び回るリズムに共鳴して音楽となっている。

 そして忘れてはならないのが、曲タイトル。
 “A Genre Study of Black Male Death and Dying” や “Super Predator” といったように情勢を率直に表したものが多いのだが、何より目をひくのは、“Black Industrial Complex - Automation Repress Revolution in the Process of Production, and Intercontinental Missiles Represent a Revolution in the Process of Warfare” のようなやたらに長いものがいくつもあること。タイトル自体が、主張するテクストになっている。

 先進的であり、批評的であり、何よりも現在的である音楽。それは長い歴史を血肉として継ぐものであり、今なお進行する事態を体現しているという意味でまさしく「尖端」にある。



Speaker Music
Information
  AKA  DeForrest Brown, Jr.
  Current Location   New York, US
  Years active  2019 -
 
Links
  Official
    SoundCloud  https://soundcloud.com/speakermusic
    bandcamp  https://speakermusic.bandcamp.com
    Twitterhttps://twitter.com/dfnbrown1
  LabelPlanet Mu  
https://planetmu.bleepstores.com/release/193650-speaker-music-black-nationalist-sonic-weaponry

ASIN:B08MYQZ5R2


*1: 
ニューヨークのアパレルライン HECHA / 做 と クリエイティブ・エージェンシー Grit Creative によるキャンペーン・ハットで、テクノのルーツがデトロイトやアフリカン・アメリカンのワーキングクラスにあることを再周知させる目的によるもの。Speaker Music が楽曲を提供している。

N・K・ジェミシン “第五の季節”

“The Fifth Season”
 2015
 N. K. Jemisin
 ISBN:4488784011




〈破壊された地球 Broken Earth〉と名付けられたトリロジーの第1作品。

 舞台となる惑星は地殻活動が活発な状態にあり、数百年に一度の間隔で巨大地震や破局噴火といった大変動に見舞われている。これらの災厄は数年から数十年といった期間続いて人々を苦しめ、《第五の季節》と呼ばれている。記録上1万年前程から人類はこの災厄に襲われ続けており、その都度人口や文化の後退を余儀なくされたが、絶滅には及ばず、隆盛を繰り返して現在に至る。
 こうした環境にさらされ続けた結果、人類の社会形態は《季節》の到来を前提としたものに変じており、用務に応じたカーストやさまざまな制度をもって、いずれ必ず再来する災厄へ備えていた。
 そのなかで最も特異な存在が《オロジェン》と呼ばれる者たち。彼らは大地や熱のエネルギーを用いて地殻変動を制御し得る超能力を持っており、襲い来る地震の抑制が期待される反面、その力自体が脅威になりかねない者であるとして厳格なコントロール下に置かれている。


 物語は、並行する3つのパートによって進行する。
 それぞれ、エッスン/ダマヤ/サイアナイトという3人の女性の視点。いずれもオロジェンだが、年齢は異なる。
 設定を掴みきれていない最初の頃はかなりとっつきづらかったけど、どのパートも急におもしろくなり始める局面があり、そこからは一気に引き込まれていく。文庫版で約600ページのボリュームだけど、電子版で読んでたらそんなにあると思わず、途中からは無休で読み通せた。


 まだ1巻だけでわかることは少ないけれど、テーマ的なものは何となく見える。
 すなわち、「危機に瀕しているのだから、生き残るためには残酷で抑圧的でも仕方がない」──ということを許容するかどうか。
 物語としてはこれを拒否する方向へ世界を変えようとしていくと思うのだが、《オベリスク》や《石喰い》といった未知の存在がどう絡んでくるのかはまだ全然見えてこない。
 世界体制は端的にディストピア。それこそ、つい最近現実社会での事件や炎上事例のあった「優生思想」で成り立っているし。これが物語として肯定されていく展開になるとは思えない。ついでに言えば《季節》というのは、いまだとどうしてもパンデミック下にある現実世界に重なって映る。執筆時期からしても意図外の偶然だし、混乱と災害の度合いは《季節》の方がはるかに大きいのだが。


 雰囲気としては、社会・生態を細かく設定立てて描写するところがル・グウィンとか『デューン』とかに似てる。
 3パート構造でただでさえ混乱しがちなところ、独特の社会や用語を掴むのに最初苦労するし、世界設定が反映されている罵倒語とおぼしき言葉が混じった文体(「錆び」「地球火」とか)で非常に読みづらいけど、理解が進むにつれて魅力がわかる。特に3つのパートの主人公たちの関係がわかってから。この主人公たちにかぎらず、登場人物たちの「変化」「変貌」や「正体」の意外性みたいなのもこの作品の佳所。

 トリロジーSF作品、最後まで邦訳が出ないパターンがままあるのでこの作品も不安なのだが(同じ作者のファンタジー “Inheritance Trilogy” がまさしくそうで、第2作品までで邦訳が止まっている)、この〈破壊された地球〉シリーズは3作品すべてが3年連続でヒューゴー賞授賞という史上初の快挙を果たしたらしいので、邦訳出しきる可能性はあるかな、と思う……。


 

“ドローイングの可能性” 2020.06.02. - 2020.06.21.



ドローイングの可能性
 The Potentiality of Drawing

 東京都現代美術館



 目下の世情により開催が留保されていた企画展。当初予定されていた期間3/14〜6/14が6/2〜6/21に変更されて開催された。たったの20日間。同時期の企画だったオラファー・エリアソン展の方は9/27まで延長されて開催されたというのに……。オラファー展のような集客力のある企画と比べてもしかたないが、内容は良かったのでもったいない。鑑賞機会の稀少な企画展となってしまった。
 

本展は、線を核とするさまざまな表現を、現代におけるドローイングと捉え、その可能性をいくつかの文脈から再考する試みです。
デジタル化のすすむ今日、手を介したドローイングの孕む意義は逆に増大していると言えるでしょう。それは、完成した作品に至る準備段階のものというよりも、常に変化していく過程にある、ひとや社会のありようそのものを示すものだからです。
この展覧会では、イメージだけでなく手がきの言葉も含めて、ドローイングとして捉え、両者の関係を探ります。また、紙の上にかく方法は、揺らぎ、ときに途絶え、そして飛翔する思考や感覚の展開を克明に記すものですが、このような平面の上で拡がる線だけでなく、支持体の内部にまで刻まれるものや、空間のなかで構成される線も視野に入れ、空間へのまなざしという観点から、ドローイングの実践を紹介します。更に、現実を超える想像力の中で、画家たちを捉えて離さなかった、流動的な水をめぐるヴィジョン(想像力による現実を超えるイメージ)というものが、ドローイングの主題として取り上げられてきた点に注目します。
最も根源的でシンプルな表現であるドローイングは、複雑化した現代において、涯しない可能性を秘めるものでしょう。
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/the-potentiality-of-drawing/



「ドローイングの可能性」展示風景動画
Installation views of "The Potentiality of Drawing"


 3章構成で7人のアーティストの作品を展示している。
 1章 言葉とイメージ 石川九楊、アンリ・マティス
 2章 空間へのまなざし 戸谷成雄、盛圭太、草間彌生
 3章 水をめぐるヴィジョン 山部泰司、磯辺行久


 まず最初の部屋、「言葉とイメージ」をまさしく体現する石川九楊の作品に圧倒される。
 石川九楊は書家。前衛書道といってもいいと思う。可読性を超越し、前提知識がなければグラフィックや絵画としか見えないが、何かパターンのようなものがあることはわかり、あたかも別種の知性体が用いる文字のようでもある。

 マティスによる切り絵と手書き文字の挿絵本が展示された室の次に現れるのは、交差する「線形」を追求する戸谷成雄の抽象アート。これは現物もさることながら、図録の写真もすばらしく、作品の質が良く再現されていた。
 特に圧巻だったのは部屋の中央を占めるインスタレーション『視視線体 — 散』。線をモチーフにした他の作品とは異なり、中心に鎮座する鉱石のようなものと、それが砕かれ弾けた結果のように壁に貼りつく無数の破片から成る。静止状態からそのように運動を感じさせるところが、「視線体」というコンセプトとしてそれまでの諸作品と一貫している。こうしたインスタレーションを美術館内に展示するということに作家の身体的な労力の痕跡も感じてしまい、それもまた作品に潜在する力動なのだという気がした。いつかどこか別の美術館で展示されるとき、ふたたび同じ労力が投じられてこれが再現されるはずで、そうした運動の総量のようなものが感じられる作品。

 盛圭太の作品も空間に描出される線によって表現されている。
 遠くからだと二次元的な線画のように見えて、近付くとそれらが壁に架け渡した糸でできているとわかる。しかもよく見るとそのいくつかは湾曲した壁面の上に張られていて、三次元的に配されている。糸は太さや色、縒り方もさまざま。遠近に応じて抽象と具象の合間を揺れ動く。

 そして次は山部泰司の風景画。青一色で描かれた絵と、赤一色で描かれた絵がある。実際は他の色も微妙に用いられてはいるけれど、まず心象で把握されるのは「青」と「赤」だ。西洋の風景画の形式に拠りながら、山水画の構成で描かれた流水図。濃淡をもった単色が視覚へ与える刺激が端的に気持ちいい。

 続いて磯辺行久。越後妻有アートトリエンナーレなどで実際に制作されたインスタレーションの構想図など、作品が具現化する前の段階でおこなわれるドローイングの展示。こうした思考段階の痕跡というものは、分野によらずおもしろい。

 最後は草間彌生。『パシフィック・オーシャン』のように素材の質感が表れた作品はやはり美術館で見る方が良い。こうした作品に残る手の痕跡からも、そこに掛けられた作業──つまり、時間というものが感じられてくる。




 文字通り線自体でつくられた作品もあれば、線を引くという行為に着目した作品もあり、また、作品を思考する過程という面で取り上げられた作品もあって、「ドローイング」という切り口は企画展のテーマとしてなかなか良かった。
 紙にペンを落として線を引いていくという行為は、それこそ創造のもっとも原初的なものと言ってよいと思うのだが、この展覧会の作品群を通して感じられたのは、「線を引き始めよ」という命令のようなメッセージだった。



 

Klein “Frozen” (2020)







 非常に先鋭的。
 主にギターとピアノでつくられているけれど、はっきりしたメロディを紡がずに断片化、ノイズやドローンとなって溶け合い、指針となるビートもないまま彷徨いながら情景を連ねていく──というような作品。
 過去の音源、2019年の “Lifetime” や、 Hyperdubから出たEP “Tommy” などにはダンサブルもしくはメロディアスと言っていい曲もあり、まだしも聴きやすかった。
 それらに比べると今回のアルバムはそれこそ極北。“Frozen” と冠されているのも頷ける。
 ここには極限まで研ぎ澄まされた世界がある。音楽というより、もっと広義の「音を使った芸術」あるいは「音を使った文学」とでも言った方がいいような。
 同種のものを挙げるなら、The Caretaker の “Everywhere At The End Of Time”。
 つまり、言語を使わずに聴覚からインプットする形式の物語、とでも言うべき表現だ。

 たとえばM-1 “when jesus says yes, nobody say no”。足音かストンプのようなサウンドに始まり、次いで鳥の鳴き声や水音が現れると、やがてエレクトロニックなノイズが全体を覆い、不明瞭なヴォイスがあふれた後、かすかなドラムを伴って楽曲らしきものが完成する──というような流れは、古典的であれ現代的であれおよそ音楽の通常の形式には則っておらず、もっと別種の独自な文法でできたものと思える。
 あるいは M-2 “care about us”。ライヴハウスの轟音が遠くから聞こえるような音場が空白を挟んで何度か繰り返され、インダストリアルな不協音へ転じてから、唐突にストリートの会話が入り込んで終わる。4幕あるいは5幕からなる構成は、シーンそれぞれのつながりから何かナラティヴが浮かび上がってきそうだ。
 心地良いBGMとして流せるタイプのものでないのは確かで、これはむしろ「都市を語るアルバム」と捉えるべきなのだろう。街角の喧噪、漏れ聞こえる会話、都市そのものが立てる音。

 そうした延長に、アルバムの中でもっともラディカルな M-8 “mark” も位置づけられる。
 この曲は2011年にロンドンのトッテナムで起きた警察による容疑者射殺事件をテーマにしたもの。理不尽な事件が大規模な抗議運動を生み、騒乱を派生しつつ根深い非対称構造への怒りを氾濫させる──という、まさしく2020年5月末の現在、アメリカのミネアポリスに端を発した一連の状況を髣髴とさせる出来事だ。
 特筆すべきはこの曲の構成。冒頭1分半が経過した後、約8分の「黙祷」がおこなわれる。そして完璧な静寂の中から、どこかためらいがちに弾かれる静かなピアノが現れると、聞き取れないほど変形された叫びが響き、そして M-9 “understand our track” の荘厳とも言えるドローンサウンドへシームレスにつながっていく。
 ともすれば浮き世離れした実験的アーティストとも捉えられかねないところ、ここではかなり明確な政治的メッセージが示されていると思うのだが、しかしこの曲もあくまで都市の断片や人の声をコラージュしてつくられたもの。歌詞もなく情感的なメロディもなく、ただコンクレート的なサウンドとその構成によって主張がおこなわれているというのは、楽曲という表現の枠を大きく超えている。
 決して快楽を伴う音楽ではないのだけど、聴覚による体験として刺激的。




Klein
Information
  OriginSouth London, UK
  Years active  2016 -
 
Links
  bandcamp https://klein1997.bandcamp.com/album/frozen


ジョセフ・K.キャンベル “自由意志”




 もし「決定論」が真だとするならば、人間に自由意志などあるのだろうか? いや、仮に決定論が偽であり世界は非決定論的にできているのだとしても、運や偶然ですべてが進んでいくのであれば、やはりそこに自由意志の余地はない。
 この問題は「自由意志のジレンマ」として、古来より哲学のテーマとなってきた。
 なぜ自由意志がジレンマに陥るとまずいかというと、何よりも「道徳的責任」の危機となるから。人が自由意志を持たずすべてが既に決定されている、あるいはすべてが運任せにすぎないのであれば、人は自分の行為に道徳的責任を持つことはないのではないか。そうなると人の社会は立ちゆかなくなってしまう、と。

 この本は、そのような自由意志をめぐる哲学の諸議論を整理したもの。特に、自由意志のジレンマを導くさまざまな「論証」の詳細に焦点を当てている。
 あくまでも決定論/自由意志/道徳的責任の緊張関係が主題であって、ホッブス以降の両立的自由論(身体的・社会的な束縛や拘束からの自由)についてはあまり関心が向けられていない。

 古典的問題設定に始まり主要な論証を経て、最終章では現在の思潮が紹介される。「自由意志」にはいろいろ困難もあるのだけど、現に人々の日常概念として、あるいは社会の運行に必要なものとして使用されているのだから、それを前提にこの概念をどう扱っていくか──というところを共通に踏まえながら現状のさまざまなスタンスにつながっていることが見て取れる。



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ユーン・ハ・リー “ナインフォックスの覚醒”

“Ninefox Gambit”
 2016
 Yoon Ha Lee
 ISBN:4488782019




 世界設定が独特。
 特異な文化・社会形態で宇宙に覇を唱える〈六連合 (Hexarchate)〉。
 その枢要は「暦法」と呼ばれる秩序体系で、成員すべてがこれに服することで物理法則を超えた効果が得られ、超光速航法や種々の殲滅兵器を実現して星間支配を揺るぎないものにしている。
 〈六連合〉はその名の通り六つの「属」から構成されており、得手に応じて戦闘、謀略、教義等が分担されている。
 主人公は戦闘を司る属、〈ケル〉の一人。辺境の要塞が〈六連合〉の秩序に反する異端の勢力に墜ちたことから、攻略作戦を提案して抜擢される。
 その方法は、大虐殺の罪を犯し「亡霊」状態で幽閉されていた伝説的な戦術家を自身に取り憑かせ、奪還軍団の指揮を執らせること。
 かくして主人公は、策謀に長けた属〈シュオス〉の元将軍と二重精神状態となり、強大な艦隊の指揮官として辺境へ向かう──といった物語。


 三部作の第一作目で、シリーズ全体は “Machineries of Empire” と称されている。「帝国の機構」あるいは「帝国の諸勢力」といったところか。ドゥルーズの「帝国機械」を彷彿とさせる感じもある。
 要するに「帝国」というのがキーワードで、暦法の秩序に支配される巨大国家〈六連合〉と、それに対する反抗がシリーズの骨格となっている。

 数学体系で世界を支配する「暦法」なる設定がまず興味を引くところだが、作中ではその詳細にはほとんど踏み入られていない。暦法が生むエキゾチック効果はほとんど魔法と同義で、ハードSFではなくSFファンタジーの作品と捉えた方がいい。
 ただし、だからといってがっかりする必要もなくて、そうした魔術的な技術やガジェット、それらを駆使するために構築された文化様態の描写や語感がこの作品の特長。テーマとしても、このような帝国に求められる社会構造とその葛藤といった方に焦点が向けられている。
 また、精神内に棲まわせたかつての天才司令官/大反逆者に作戦の参謀をさせつつも、自分を何かへ誘導しようとしているその策略にも抗していかなければならないという緊張。あるいは、六属の主要なプレーヤーたち各々の目論見、必ずしも一枚岩ではない軍の動向、敵側の内部事情など。そのようにさまざまな勢力が織り成す駆け引き、暗闘の様相がなかなかに魅力的。
 作品の原題 “Ninefox Gambit” の “Ninefox” というのは、主人公に取り憑くシュオス・ジェダオを示すシンボル「九尾の狐」のこと。つまりタイトルは、ジェダオによる差し手、というような意味で、この第一作目をシンプルに要約している。
 なお、第二作目は “Raven Stratagem”、最終作は “Revenant Gun” というタイトルで刊行済。このままきちんとシリーズを読み通したい──と思わせる第一作だった。


 「暦法」については後続の作品でもう少し解説されるのかもしれないが、一応この作品でも概念上重要と思われることが触れられていて、それは暦法が「信念体系」であるということ。

「ある意味、暦法をめぐる戦いは競合するルール間のゲームであり、それぞれの信念の強さによって支えられる。暦法戦で勝利するにはゲームの仕組み、機能を熟知しなくてはならない」

 こうした記述からも、暦法という設定がハードSF的な数学に依拠しているというより、もっと哲学的・言語的にアプローチされている節が窺える。
 「フォーメーション本能」というものもひとつの核心。


 






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell